~「人間の願いは 欲に流され 如来の願いは 悲哀に満ちている 」 

 如来の願いは、生きとし生ける者の現実の有り様を悲しみ、哀れみ、一切衆生が救われ、満足を得ることがないならば、自らも仏とならないという誓いを伴った誓願であると教えられている。
 一方、我ら人間の願いとは如何なるものだろうか。誰しもが幸福、平安を願い、充足を願っているに違いない。神仏に願いをかける時も、おおよそ同じ内容である。しかし、たとえそれが切実な願いであっても、私的な欲求であり、願う主体が私である限り、その願いは我欲に流され、不安は必然となり、また、その願いは闇へと向かわざるを得ない。
 しかし、如来の悲哀に目覚め、願う私が、如来に悲哀され願われた私へと転換する時、不都合を背負いつつも、悠々と娑婆を生きる人生を賜るのである。

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Last modified : 2014/12/13 16:35 by 第12組・澤田見(ホームページ部)