ほんがんによって ひとはにんげんにめざめ みちをいただき ほとけとなる

~ 人間の 願い事の正体を 照らし出すのが 如来の願いである~

 新年に人が心新たに神仏に頭を下げ、「お蔭様で新年を迎えることができました」と手を合わす姿は素晴らしい。が、次に「今年こそ・・でありますように」と願い事が出てくる。本来、「願い」には、願う者の「誓い」が伴わなければならない。誓いの無い願いは、切実であっても我欲の域を出ないものである。そこに人間存在の悲しさがある。
しかし如来は、そうした我欲に満ちた人間の願いの正体を照らし出し、哀れみ、悲しみ、真実の願いに目覚めて欲しいと願われている。その如来の願いに出遇う時、人は唯々、謝すべき身の事実に気づき、新しい人生の始まりを賜るのである。新年、「あらたまの年の始めは祝うとも南無阿弥陀仏のこころわするな」との蓮如上人のお言葉が身にしみる。

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Last modified : 2014/12/11 6:52 by 第12組・澤田見(ホームページ部)