生えて困る草を 勝手に雑草と 呼んでいました ~  高光かちよ  ~ 

 草花に限らず、私たちはその時々の自分の都合や勝手であらゆるものの良し悪しを決め、取捨しています。しかし自分の都合を優先する中で、最も苦しんでいるのが私たち自身なのではないでしょうか。
 詩人の金子みすゞさんは『芝草』という詩で、可憐で可愛い蓮華草やすみれ草の咲く野原で遊び疲れたとき、踏んでも枯れず青々と茂る芝草がなかったら「どこへ腰かけ、どこへ寝よう」と詩います。
 私たちが「雑草」と呼び捨てている草花に、実は私たちは癒やされ育まれてきたのでしょう。
 それこそ、どんないのちとも必ず共にあるという、このいのちの事実を見失い、私たちは苦しんでいるのです。

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Last modified : 2014/12/13 12:28 by 第12組・澤田見(ホームページ部)