仏青研修旅行~冬~

Pocket

去る219日~20日には「仏教青年会連盟」(以下仏青)の年一行事である研修旅行が行われました。

今年は広島に一泊二日の旅になりました。

写真を含む旅路の記録を12組 勸正寺 長谷正利さんより寄稿していただきました。

以下引用

2月某日、被爆一世の語り部・江種祐司氏による「ひろしま平和学習」をベースとして仏青研修旅行スタート♫

道中では「村上水軍」ゆかりの寺院で前住職からお話しいただく等、非常に学びの多い旅行となりました。

研修旅行2日目。御年90歳の被爆一世・江種祐司さんによる平和学習。

江種さんは繰り返しこう言われました。

「核兵器がある限り人類は絶滅に向かっている。核は生命の尊厳を残酷な手段で奪った。広島市内を流れる川の底には未だに犠牲者の骨が埋まっている。今の広島はその上にあるのだ、という事を知って欲しい。戦争というものの愚かさを伝えていかねばならない」

「広島ではいまだ多くの被爆者が弔われないまま地面や川底の下に眠っており、その上を覆っているのが今の広島なんです。そのことを決して忘れてはいけない」

予定していた時間を大幅に超えて私達に向かって熱弁してくださった江種祐司(えぐさ ゆうじ)氏。戦時中は広島師範学校の学生で、戦争末期になると南区の宇品(うじな)にあった軍の船舶司令部に動員される。空襲に備え、弾薬や衣服を宇品港沖の金輪島の洞窟に移す作業を繰り返していたそうだ。1945年8月6日は、金輪島にある作業者用控え室で窓から光がパッと飛び込み、顔の片側が熱くなった。窓ガラスは吹き飛び、外に出ると見たことも無いキノコ雲が立ち上っていた、という。

 「地面に黒焦げの死体が、と思っているとその中から人の腕が伸びてきた。足首をつかまれそうになり蹴飛ばした。まともな精神状態でなかったのです。その後、どうやって学校まで戻ったのかも覚えていません」とその時の様子を苦悶の表情でお話くださいました。

 「その時どんな気持ちでしたかと聞かれる事が多いですが、何も無い。からっぽですよ。あの時は何かを考える力すら無かったのです」

 江種さんが被爆体験を後世に語り継ごうと思い始めたのは、70年代に入り原水爆禁止世界大会に参加したのがきっかけと仰られます。20年ほど前に息子さんをがんで亡くしてから、さらに思いを強くされたそうで自身の被爆との関係を強く疑ったが、医師からは明確な答えはなかったという。娘さんも白血球が少ないそう。

 「医師にさえわからない、そこに放射線の恐ろしさがある。被爆者は身をもって示している。だから話そう、話さないといけないという思いに変わっていきました」

 今の平和教育の現状に危機感を覚えられるそうで、「まるでおとぎ話のように、原爆がどこからか降ってきたかのように認識している子どももいる。誰が原爆を落とし、被爆者がどうなったのか。そして放射線についても、もっと時間を割いて教えるべきです。私も命が続く限り、体験を語っていきたいと思っています」

 江種 祐司 1927年生まれ。福山市出身。1988年に中学教諭を退職。以後も自身の体験を語る活動などを続け、14年から県原爆被爆教職員の会会長を務める。

以上が寄稿して頂きましたレポートになります。

仏青では映画鑑賞会や「南無でんねん」という表題の学習会・輪読会等広範囲に渡って活動を行っております。

お問い合わせ   大阪教務所(担当:中嶋)06-6251-4720