問い

真宗と他宗とでは、中陰(ちゅういん)の受けとめ方、勤め方が違うそうですが、どう違うのですか。

答え

 宗祖親鸞聖人(しゅうそしんらんしょうにん)は「ただ念仏して、弥陀(みだ)にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり」と端的に、純粋に仏教の精神に立っておられます。

 しかし私どもは世の中にあって、いわばスッキリと割り切れない生活をしています。長年の日本人の慣習(かんしゅう)の流れの中に生きているわけです。

 その私どもの生活の中で、純粋な仏教精神を身につける縁となるものは、決して純粋なものばかりとは限りません。

 親鸞聖人が亡くなられた頃、またその後、親鸞聖人の純粋な正しい教えをいかに多くの人々に聞いていただきたいかと願われた方が多くあったのです。親鸞聖人から数えて三代目の覚如(かくにょ)上人、八代目の蓮如(れんにょ)上人などは命がけで真宗を広めようとされた方です。

 そのころの社会には、既に『十王経(じゅうおうきょう)』という中国で作られた経典に基く追善供養(ついぜんくよう)が習慣化していました。中陰法要の行事は便宜上その習慣によったものです。

 『十王経』による十王信仰(じゅうおうしんこう)とは、生あるものは四つの在り方をするということから始まります。生まれることを生有(しょうう)、生きている間を本有(ほんう)、死ぬことを死有(しう)、それから次の生有にいたる間を中有(ちゅうう)といいます。生物は輪廻(りんね)、転生(てんしょう)して、自業(じごう)によって次の生が決まる。その中有の期間、十王の前を転々して、生前の業(ごう)が裁かれていくのであり、その期間に縁ある生者(せいじゃ)からの追善供養(ついぜんくよう)を受けることによって、よりよい次の生を受けると考えられ、これが中陰の行事となったのです。従って、他宗での仏事は、全てこの追善供養を立て前としています。

 しかしこれは仏教本来の考え方ではありません。真宗では、便宜上この様式を取り入れていますが、追善供養ではないのです。蓮如上人は、この様な中陰行事が行われている状況の中で、どのように念仏の教えを伝え根づかせていくかという課題を荷われたのです。念仏者は、すでに念仏を通して心に浄土を開いているものですから、命終わる時には浄土へ真すぐ帰って行くのであって、四十九日間あちこちと冥土(めいど)を転々とすることはないのです。むしろ輪廻(りんね)を断ち切るのが私達の信心によって獲られる利益(りやく)です。

 便宜上行われる七・七日(なななぬか)の法要を通して、それを信心決定(しんじんけつじょう)の仏縁としていくことが大切です。それには、一にも二にも聞法です。縁を大切にして真実の法に触れ、生きている私達が迷い心を離れてゆくことが、とりもなおさず、亡くなった人への本当の供養ではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信 No17)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)