問い

最近困ったことが次々と起こるので、見てもらったら、「水子の供養をせよ」と言われました。どうすればよろしいでしょうか。

答え

 あるご住職のお話です。

 ある時「神さんに見てもらったら、水子供養のためにお寺へ行って三部経(さんぶきょう)を読んでもらえと言われましたので」と来られました。

 「真宗では、そんな気休めのお経は読まんのです。共に目覚める方向へ歩ませてもらうような教えを聞くことが大切なのです」と、一旦は断わったが、しかしこの人はまた他の寺へ行って気休めをしてすまされるだろうから、折角の仏縁(ぶつえん)をこちらから切って、本人を永遠の迷いの海へ流してしまうよりは、この縁を生かそうと思い直して、一巻のお経をていねいに読みました。

 終わってから「読経中(どっきょうちゅう)何を考えながら参っておられましたか?今あの子が無事でいたなら十二、三歳にもなっているのがかわいそうなことをしたなーか。あるいはこれで水子も浮かばれて、私の病気もなおるだろう。やれやれか、どちらです?」

 「後の方です。健康がすぐれないので見てもらったら、水子の供養をせよと言われたもので……。」と告白されました。

 「水子のためと言われたが、本心は自分のため、我が病気のために水子をダシにしているにすぎませんよ。その時は自分の都合で水子にし、今はまた自分の都合で水子をダシに使おうとしている。というのが『水子供養』というものの姿ですよ。気まま勝手この上ない自己中心の営みをあなた自身が重ねるだけです。そしてその罪業は、お経で帳消しにはなりませんよ。お経はむしろ、罪の深さを教えるご説法なのですから。」

 「そんなら、どうしたらよろしいか。」

 「煩悩の心で生きている私達は皆、罪業の持ち主なのです。あなたばかりではありません。そして共にその罪をお経や念仏で帳消しにはできないのです。迷いの世界から覚り野正解に目覚めていかなければ、たとえ罪の帳消しができたとしても、煩悩の心で後から後から限りなく罪を作りますから、部分的に罪を消したとしても、自分自身は助からないのです。私自身が罪の自覚の上に、仏の教えに救われなければなりません。また、私の力で死んだ人を救ったりなどもできないのです。本当に子供を救いたいなら、自分が仏の教えに聞かねばなりません。そして自分が救われた時、初めて水子も救われるのです。それが仏教です。今日のことをご縁に仏法に近づいて下さい。そのことを仏様は念じていて下さるのです。
 今日、門を入る時は『水子のために』と思ってこられたでしょうが、この話を本当にわかって下さるなら、門を出て帰られる時は『水子のお陰で』と受け取られるでしょう。そういうお導きを受けたという上から、水子もまた仏様の化身であったと受けとられるのではないでしょうか。」とお話をしたことでした。

 その後、この方は門法会に出席して下さるようになりました。

(本多惠/教化センター通信 No31)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)