問い

真宗では、「善人」より「悪人」が救われると言われますが、理解できません。

答え

 『歎異抄』第三章において、親鸞聖人は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と仰せられ、さらに「一般には『悪人ですら往生できるなら善人はなおさら往生できる』と言われているが、しかしこれは本願の心に背くものだ」とおっしゃいます。

 ここにいう「善人」とは「自力作善(じりきさぜん)の人」ということで、自分の努力によって善を作(な)し得ると思い、作しているつもりの人のことです。

 また「自力」とは「わが身をたのみ、わが心をたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根(ぜんこん)をたのむ人」と言われ、自分の理知や努力を励みとして、何とかすれば何とかなると思って生きている人ということでしょう。

 しかし、自分を頼みにすると言っても、それは理想であり思いだけのことであって、事実は我が身も心も、理知も努力も心底頼みになるものではないでしょう。しょせん自力は夢を見ているのであって、事実は自力は無効なのであります。
 自分の今までの人生を振り返って見て、「俺の力で今日の自分を築いた」と思っているならば、それは思い上がっているだけであって、よくよく考えてみると条件に恵まれ、みんなのお陰で支えられてきたのであり、事実は自分のできること、したいこと、しなくてはならないことだけをさせてもらってきたということではないでしょうか。俺の努力と思っていたことの全体が、「お陰様であった、我がはからいではなかった」と信知せしめられ、自力無効の事実に頭の下がった人を「悪人」と言われるのでありましょう。

 「悪人」とは、「他力をたのみたてまつる」人と言われます。単に外から見た犯罪者とか不道徳な人という意味ではありません。

 悪人には、自識(じしき)の悪人(自分は悪人だと思っている人)、自覚の悪人(自分は悪人と自覚し、善人になろうと努力する人)、自傷の悪人(自分は悪人であったと本当に気づき、善人に成ろうと努めても果たせず心傷める人)、と三様があると教えられます。

 「他力をたのみたてまつる悪人」とは、自傷の悪人であって、自分の能力や努力を頼んで何とかしようとしても何ともならない問題に悩み、心を痛める人こそ、全ての人を救わずにはおかないという弥陀の本願が真に切実にいだかれるのであります。
 医師はすべての人を診療されますが、医師を真に必要とし医師にすがる人は、病人であり病気に悩める人です。健康であると自負している人には医師の救いを必要としないのと同じように、みずからを善人と自負する人には弥陀の本願は感得されないのであります。救いの見込みがなく、自我のはからいに破れ、自力無効を信知した悪人こそが弥陀の本願の正客(しょうきゃく)なのであり、自分を頼む思いから解放されて、真実救済の感動を得ることができるのであります。

(本多惠/教化センター通信 No61)

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Last modified : 2015/02/11 23:14 by 第0組・澤田見(ホームページ部)