問い

声を出してお念仏を称えるのは何か恥ずかしい思いがします。心の中で念じておれば、別に声を出して称えなくてもよいのではないですか。

答え

 法然上人の御在世のころ、多くのお弟子の中で、次のようなお尋ねをした人があったそうです。
「お念仏は、大きな声で称えたほうが功徳があるのですか。それとも小さな声で静かに称えるほうがよいのですか。また、心の中で称えるのは意味がないのでしょうか」
 この質問に対して法然上人は「わが耳に聞こゆるほどに」と答えられたそうです。

 お念仏はすべての人に保ちやすく称えやすい形となった、すべての人に響く命の叫びであります。声のでない人にも称えられ、耳の不自由な人にも聞こえるのが南無阿弥陀仏です。

 その意味では、法然上人が「わが耳に聞こゆるほどに」称えなさいと教えられるのは、心の耳に聞こえるように称えよということに違いありません。要は阿弥陀仏の名のりであるお念仏を聞くということに大事な意味があるわけです。

 「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」にも「あらゆる衆生、その名号(みょうごう)を聞きて、信心歓喜(かんぎ)せん」と説かれています。名号は、名のりであると同時に呼びかけであります。その呼びかけが聞こえた感動が、そのまま「信心歓喜」であります。その感動は言葉として表現されるのが自然であります。それが南無阿弥陀仏のお念仏であります。南無阿弥陀仏というお名のり・呼びかけに、南無阿弥陀仏と、いわゆる称名念仏することが、私たちの応答になるわけです。

 感動が深ければ深いほど、応答する声が大きくなるのは自然のなりゆきでありましょう。報恩講では大きな声を張り上げてお勤め(声明(しょうみょう))をします。これは南無阿弥陀仏という称名念仏が中心です。参集の人々が声を合わせ、張り上げてお念仏を称え、その前後に親鸞聖人が仏徳を讃嘆された「正信偈(しょうしんげ)」「ご和讃(わさん)」を唱和するのです。感動の深さはおのずと大きな声という形に現れるのです。

 またその形を通して、心が響くものです。大声・小声は問題ではありません。自分の耳に聞こえる程度に声を出して称えることが大切であります。称えるその声が、アミダ仏の呼び声でありますから、声に出して称えるところにおのずから感動も喚び起こされ、また他の人々との連帯感もより感得されることでしょう。

 聖人も「称える」事は「聞く」ことであると教えられます。称えながら聞き、聞きながら称えるところに、おのずから如来の本願に生かされる喜びが深まってくることでありましょう。

(本多惠/教化センター通信 No.74)

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Last modified : 2015/03/02 18:20 by 第0組・澤田見(ホームページ部)