問い

親鸞聖人の教えでは、「感謝」と「報謝」は違うように言われるようですが、どう違うのですか。

答え 「感謝」とは「有難く感じて謝意を表す」ということで、人間として大切な気持ちではありますが、しかし私たち人間の心で「有難く感じる」ことは、「自分の都合のよい限り」でありましょう。

例えば、お金に困っているときに他人からお金を貸してもらえれば「有難い、地獄で仏」とも思い相手を拝むこともできましょうが、返済の期限が来て催促でもされれば、相手を鬼のようにも思う気持ちに変わるのではないでしょうか。

よく「今日、このような結構な生活ができるのも仏さまや先祖さまのおかげです。毎日感謝しています。感謝しなかったら罰が当たります」と言われるのを聞くことがあります。しかしこの「感謝」には恐ろしい心が潜んでいます。

この感謝は、自分が結構な生活ができることを喜んでいる感謝でありましょう。もしその生活が根こそぎ崩れ、多額の借金を負い路頭に迷うようなことになったり、不治の病にでもなれば、その感謝はどこへやら「神も仏もあるものか」と言うことになるのではないでしょうか。
すなわち私たちの感謝は、自分の都合を喜んでいる心なのでありましょう。

また「今日の私の結構な生活」と喜んでいるその生き方のもとに、どれだけ多くの人々が傷つき、迷惑をし、追いやられ、犠牲になってきたかということに気が付かない。しかも今日の私の結構な生活を「感謝する」ことによって、今日まで、いや今も成している私の罪業(ざいごう)の一切を帳消しにしてしまうのです。

人間の心でする感謝は、自分の幸せしか喜べない心であって、要するに「自分さえ幸せであれば他はどうなってもよい」という恐ろしいエゴイズムが内包されています。

「感謝、感謝」と言っている間に、この地球上のたくさんの生命が苦しみ、飢え、餓死していっている現実があります。

親鸞聖人が教えられるのは、このような感謝ではなく「報謝」であります。「報謝」とは、アミダの本願が私の上に「報われた」感動であり、その感動において私の生命を投げ出しても報いていかずにはおれない生活が賜ることであります。
「本願」とは、「一切衆生」に平等に賜ってある生命の尊厳に目覚めさせ、あらゆる命と共に一つ世界(浄土)を開いて生きよという生命の親の願いであります。この願いが私の上に届いて、初めて私たちは自分だけの幸せを願う生き方のあさましさに気づかされ、あらゆる生命と共に浄土に生まれ、出遇って生きようという「報謝」の歩みが始まるのであります。

(本多惠/教化センター通信 No.79)

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Last modified : 2015/02/15 9:58 by 第0組・澤田見(ホームページ部)