問い

私の家は、以前から真宗ですが、最近大きな疑問がわいてきました。それは、毎月お参りに来られる坊さんが、しきりに口称念仏(こうしょうねんぶつ)、口称念仏と言われるのです。即ちお念仏を称えることがいちばん大事だと言われますが、私にはピンときません。口称念仏とはいったいどういうことでしょうか。

(35歳・女性)

答え

 口にお念仏を称えることが大事だと言われるのがピンとこないとのことですが、無理からぬお気持ちかと思います。おそらく貴女は今日まで、真宗即ち親鸞聖人の教えをじっくり聞かれる機会が少なかったのではないでしょうか。長年、聞法をしてこられた人でも、「お念仏が素直に称えられません」とか。「蓮如上人はお念仏は無上甚深(じんじん)の功徳利益(りやく)の広大なることさらにそのきわまりなきものだと言われますが、私にはその実感がありません」と言われる人がたくさんおられます。

 元大谷大学の学長であられた正親含英(おおぎ・がんえい)先生は、「生(せい)の苦しみにも本願を仰ぎ、死の寂しさにも念仏に親しめば、ほのかなる喜びあふる」と言われ、静かにお念仏しておられました。そのお姿に促されてお念仏に親しみを持ち、生きる喜びと勇気を見出された方が多くあります。

 また元専修学院長であられた信国淳(のぶくに・あつし)先生は、晩年「わかってもわからなくても、とにかくお念仏に親しませていただきましょう。そしてそのお念仏から教えられてゆきましょう」と仰せられ、自ら常に静かにお念仏される先生のお姿に接し、学生たちはそのお姿から何かを聞き取り何かを学んでいったことでしょう。

 南無阿弥陀仏は、本願の名号と言われ、仏の直接のお呼びかけなのです。だからただ口先だけで発音すればよいというのではなく、称えながら本願のお心を聞くのです。称えることはそのまま弥陀の直説(じきせつ)を聞くことです。

 阿弥陀仏の本願は、私たちに生まれた意義、そして今、現に生き生かされていることのほんとうの意味に目覚ましむるはたらきを持っています。本願を聞いて、人間であることのスバラシさと、今生かされていることの有り難さに初めてほんとうに気付かせていただくのです。その感動の表現がまた阿弥陀仏の御名を称えるお念仏になるわけです。お念仏に始まってお念仏に帰着するのが真宗の教えだと聞いています。

 ピンとこない疑問を大切にして、親鸞聖人の教えをじっくりと聞いてくださることを念願いたします。

(本多惠/教化センター通信 No.139)

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Last modified : 2015/03/02 18:17 by 第0組・澤田見(ホームページ部)