問い

40歳になる一人息子は、野菜作りで生計を営んでいます。10年ほど前に離婚、以来相手に恵まれません。つれあいのいない寂しさからでしょうか、夜遅くまで飲み歩くことが多く、稼いだお金も全部使ってしまいます。この先どうなるかと思うといてもたってもいられません。

(65歳・女性)

答え

 母親として息子さんのことを心配されるお気持ちはよくわかります。親は自分の子どもに対しては願いをもっているものですが、親の願いどおりにならなくて思い悩むのが親の宿命だともいえましょう。

 しかし、自分の子どもだといっても、人格を持った一人の人間です。その人なりの意志をもって生きておるわけです。現にあなたの息子さんは40歳になり、立派な成人であって、妻とも離別され、今後どのように生きようかと戸惑い悩んでおられる。それが一時お酒に走っておられるのではないでしょうか。

 阿弥陀如来が衆生に思いをいたし願いをかけられるのに、四無量心(しむりょうしん)として教えられています。
 四無量心とは、慈・悲・喜・捨です。慈はいつくしみの心、限りなく衆生をいとおしみ、はぐくみ育てようとする心です。悲とは衆生の悲しみを阿弥陀如来自身の悲しみとして、悲しみを共にしてくださるということです。喜とは文字どおり、衆生の喜びを共に喜んでくださるということです。捨というのは、じっと見守るということです。見守るということは、言うは簡単ですが大変なことです。相手に対する信頼とかなりの勇気が必要であろうかと思われます。

 阿弥陀如来は、この四無量心で言われる無量の慈悲の心をもって、私たち一人一人を見守ってくださるのです。親鸞聖人は『正信偈』に、「大悲、倦むことなく、常に我を照らしたもう(大悲無倦常照我)」と、如来のお心に感動しておられます。

 いてもたってもおられないほどに息子さんのことを心配されるのも、親なればこその思いやりの気持ちであろうと思いますが、息子さんを信じて、じっと見守ることはできないものでしょうか。
 息子さんも苦しみ悩んでおられるに違いありません。その苦悩に同感し、苦悩を共にできないまでも、阿弥陀如来の慈悲心を仰ぎつつ、自分自身への息子さんへの思いが純粋に息子さんを思うてのことなのかを自問自答する必要もあるのではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信 No153

Pocket

Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)