問い

真宗でいう信心を得ると、生活はどのように変わるのでしょう。

(60歳・男性)

答え

 私たちの生活のありようには、三通りあるかと思われます。

 まず一つは、不足不満の絶えない生活。仏教では餓鬼道(がきどう)の境界(きょうがい)だと教えられていますが、満足することなく、常にガツガツとしている生活です。餓鬼道には無財餓鬼といって、まったく食べるものがなく、水すらも飲めない世界や、多財餓鬼といって、食物、財産はあっても、満足ということを感じない世界があることを教えています。
 身近なことで言えば、猫や犬は腹いっぱい食物を食べれば、満足してゴロッと昼寝するか、遊びたわむれています。しかし、私たちはそうはいきません。今は腹いっぱいであっても明日のこと、ひいては老後のことまで考えて、今をあくせく生きている、つまり今現在、生きていることにほんとうの意味で充足していないということではないでしょうか。

 二つには、諦(あきらめ)の生活。上を見ればきりがないが、自分より貧しい生活をしている人もある。まあまあここらで我慢しなくてはと、いわゆる中流思考とでも言うのでしょうか。しかし、この生き方には生気が感じられません。

 三つには喜びの生活です。せっかく人間として生まれてきたからには、喜びを実感しつつ生活したいものです。ところが、私たちの喜びには、煩悩(ぼんのう)、すなわち欲望が満たされたときの喜びと、人間として、私として、生きている事実に感動する喜びがあります。

 煩悩の喜びとは、自分の思いどおりに事が運んだときの喜びです。たとえば仕事が思いどおりに順調にいったとか、宝くじが当たったとか、数え上げれば切りがありませんが、私たちにとって喜びには違いありません。しかし、この喜びは大きなものであっても、必ず終わり、さめるときがあります。

 「きらっと生きる」という教育テレビの番組で、身体障害者の方がたが、与えられた生命を精いっぱい輝いて生ききっておられる姿に、深い感動を覚えます。

 親鸞聖人は、

 たまたま行信(信心)を獲ば、遠く宿縁(わたしをも含めた過去・未来・現在のすべて)を慶(よろこ)べ

と教えられています。

(本多惠/教化センター通信 No180)

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Last modified : 2015/03/02 18:10 by 第0組・澤田見(ホームページ部)