問い

聞法会で「聞名(もんみょう)」という言葉を初めて聞きました。名(名号(みょうごう))を聞くとはいったいどういうことなのですか。

(50歳・男性)

答え「聞名」とは、名号の意味内容を聞き信ずるということです、

名号とは阿弥陀仏の名、すなわちナムアミダブツということです。私たちは普通お念仏を称えると言い、「ナムアミダブツ」とか「ナマンダブ」と口に称えています。しかし蓮如上人は、

なにの分別もなく、くちにただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生すべきように思えり。それはおおきにおぼつかなき次第なり (『御文』・聖典p.838)

とおっしゃいます。

そしてさらに、

他力の信心をとるというも別のことにはあらず、「南無阿弥陀仏」の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定(けつじょう)すとはいうなり (『御文』・聖典p.838)

とおっしゃっています。

これでわかることは、念仏を称えるということは、呪文をとなえることではないということです。名号には心があるわけです。ナムアミダブツの心とは本願です。弥陀の本願といわれていますが、その本願を聞き信ずるということが大切なことなのです。

「聞」には信じるという意味があります。一般に「仏法を聴聞する」と言っておりますが、「聴」と「聞」とは意味あいが違います。「聴」はいわゆる耳できくということです。私たちが自分の耳で、きく意志をもってきくということです。「聞」とは、きこえてくる、つまりひびいてくるということでしょうか。

私たちはきくということについて、耳できく、頭できく、胸に応える、肝に銘ずるなどと言います。しかし、親鸞聖人が「聞」とおっしゃるときは、生命にひびくと言ってよいほどの深さを感じます。『教行信証』に

衆生、仏願の生起(しょうき)・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。(聖典p.240)

といわれ、また「聞とは信をあらわす」とも教えられています。

私たちも、心静かに阿弥陀仏のお心を念じ、わが身をふりかえりつつお念仏を称えたいものです。

(本多惠/教化センター通信 No187)

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Last modified : 2015/02/15 10:00 by 第0組・澤田見(ホームページ部)