問い

真宗という名前は宗派名ということだけでなく、大切な意味があると聞きました。それはどんなことですか。

(41歳・男性)

答え

 親鸞聖人のお言葉に

浄土真宗は大乗のなかの至極(しごく)なり

聖典601頁

という表現があります。これだけを取り出して見ると、他の仏教各派と比べて一番優れていることを標榜して、いるように受け取りがちですが、そうではありません。

 その前の文面をよく読むと、心を定めて法(真理)を覚(さと)る立場や、善い行為を積み重ねて真理に近づいていこうとする立場の教えを、〈仮(け)〉の教えとして押さえておられます。偽物ではなく、仮り物という表現をされている理由は、我々が自分の努力によって覚りに近づいていこう(真実に向かって歩んでいこう)とする、自己の精神への真面目さをまず評価されておられるのです。

 しかしその真面目さの根っこには、自分の智恵の物差しを伸縮させて、世界や人生を測ろうとする自慢心・いのちの繋がりをいつしか断っている事実に気づかない自己執着心が潜んでいると指摘されます。その立場でいくら仏教を学び修しても、「我が独りの覚り(独覚(どっかく))」に止まり、仏教の本来の問いである「いのちの根源的な安らぎとは何か」を、わが思いで囲い込む立場を超えられません。

 その立場に陥ってしまうのが、自力で覚りを得ようとする聖道門(しょうどうもん)の立場であるとは限りません。南無阿弥陀仏を称え如来に救われる…他力浄土門にあっても、自力の分別心への依拠(えきょ)は根深く気づき難いのです。

本願の嘉号(かごう)をもって己(おのれ)が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず

聖典356頁

と聖人が指摘されるように、名号を称えることの形や回数を自分の救済の道具手段にしてしまう、我々の姿がそこに浮かんできます。そういう念仏の行者の思い浮かべる浄土は、

仮の仏土の業因千差(ごういんせんじゃ)なれば、土もまた千差なるべし。(中略)真仮を知らざるに由って如来広大の恩徳を迷失す

聖典324頁

と聖人が語られるように、別々の背景を持つそれぞれの人の心に去来する、バラバラの夢幻世界に過ぎません。

 しかし、これらすべては我々人間の心と生活のありのままの姿なのです。だからこそ聖人は〈仮〉と押さえられ、その仮の事実が、我々が〈真実に遇う・本願に遇う〉ことによって気づかされていく生活を、「浄土の真宗」の念仏生活とおっしゃるのです。

本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき

聖典490頁

と聖人が謳(うた)われる感動とは、人間の作り出す自力の宗教心を、その底から打ち破り超えて、「支えよう・救い取ろう」と働くいのちの本源の願い・働きに出遇った歓びなのです。

(教化センター通信 No213)

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Last modified : 2015/02/11 23:10 by 第0組・澤田見(ホームページ部)