水連
食前食後の合掌

 最近は、食前食後に手を合わせる習慣が減ってきているようです。核家族の家庭が増えたこともありますが、独立する以前の親元ですたれてきている事実も見逃せません。

 それでは、何のために合掌するのかと問われた時、どう答えるのがよいのでしょうか。

 一家の大黒柱に感謝してという答えも出てきます。しかし、それなら、自分が独立して働くようになったらその必要はないということになってしまいます。また、「仏さま」「ご先祖さま」に感謝してでもよいのですが、科学的、合理的な教育を受けている現代の若者には、なかなか理解してもらいにくいように思われます。

 そこで、いちばんわかりやすいのは、私たちの三度三度の食事に食物として犠牲になってくれた動植物のいのちに対して感謝するということがあると思います。

 釣り上げられた魚は、苦しげにのたうち回って死んでいきます。屠殺場に引かれていく牛は、その前まで来ると頑として動かないそうです。そこで人間はよしよしと牛を撫でながら、はいている草鞋(わらじ)を新しいものと取り替えます。牛は、まだまだ働かされるものと思って、モーと鳴いて歩き出し、屠殺場に入るや直ちに殺されるのです。

 私たちは直接手を下すようなことはありませんが、これらのいのちをいただいて生かされていることには違いないのです。

 いのちというのは、牛や豚や魚ばかりではありません。

 米や野菜もすべていのちなのです。確かに、大根が畑で引き抜かれる時、痛がって跳びはねたり、人参が身をよじったり、赤い血を流すというようなことはありませんが、立派ないのちであることには変わりがないのです。

 中には、彼等は人間に食べられるために生きているのだ、自分で育てたのだ、自分の金で買ったのだからと言う人もあります。

 しかし、動物や植物などの彼等は彼等のいのちを生きているのであって、人間のために生きているのではありません。このように私たちは、他のいのちの犠牲の上に生かされています。せめて「ありがとう、いただきます」「ごちそうさまでした」と心から手を合わせ、精一杯生きていく責務を負っているのではないでしょうか。

(平成6・7・9)

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Last modified : 2014/12/10 3:20 by 第12組・澤田見(ホームページ部)