水仙
願われて生かされていた私

 人間というものは、自分の願いのことばかりを考えていますが、「願われている」ということのあることを知らなければなりません。

 家庭の中でも、親子はあまり身近にいるため、愛と憎しみがむき出しになったり、怒ったり笑ったり百面相の毎日ですが、それでも親は常にわが子に願いをかけています。また、子どもは親に願いをかけています。連れ合いにも、社会にも願いをかけます。

 そのように、願いをかけている私と同じように、隣の人、勤め先の人、会社からも願いをかけられています。 

 朝、家を出る時「気をつけて行ってらつしゃい」、手紙の末尾には「時節柄、御身ご大切に」と書いてありますね。これは、明らかに「願われている」ことを表わしているのではないでしょうか。

 これは知り合い同志だから気遣ってくれていることもよくわかりますが、何の関係もない人達でも、たとえば歳末助け合い運動や災害、また、飢餓に苦しんでいる国の人達への救援なども、早く立ち直って欲しいと願っているものなのです。たとえ、自分は気付かなくても、願われている身だということです。

  一昨年の秋、本山へお参りした時、掲示板に「亡き人を案じる私が、亡き人から案じられている」というのがありました。

 年忌がめぐって来て先祖供養をと私たちはつい一方的に考えますが、諸仏となられたご先祖はむしろ、自分のことしか考えない人間の姿に目覚めよと願っておられるのです。これが仏の願いです。これは、仏の光明(智慧)に照らされて、初めて気付いていけるものです。

 お内仏の前に座って、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称え合掌礼拝するのは、私の願いを聞いてくださいというのではありません。仏さまの願いを聞くためなのです。すべてのものに願われて生かされていた私であったことに気づくのがお念仏であり、それを私の願いとして生きようとするのが「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。

(平成5年2月)

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Last modified : 2014/12/10 3:22 by 第12組・澤田見(ホームページ部)