~ 慚愧あるがゆえに 父母 兄弟 姉妹 あることを説く  -涅槃経 ~  

 『涅槃経』のお言葉である。経には「慙は人に羞(は)ず、愧(き)は天に羞ず。これを慙愧と名づく。無慙愧は名づけて人(にん)とせず、名づけて畜生とす」ともある。

 「人間」。それは、間柄を生き、あらゆる存在との関係をもって存在しているということである。単独の存在などあり得ない。しかも、人は亡き人や父母をはじめ、あらゆる存在の礎、犠牲の上に今、現に存在しているのである。いくら「誰かや、何かに迷惑をかけた覚えなし」と嘯(うそぶ)いてみても、生命存在の悲の事実を免れることはできない。そして、その事実への「痛み」あってこそ「人」であり、痛みを見失えば、畜養衆生(ちくようしゅじょう)という主体性を奪われた存在だと教えている。
 「謝すべき我が身」の事実に立ち帰る夏の仏前でありたい。

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Last modified : 2014/12/12 11:33 by 第12組・澤田見(ホームページ部)