「願い」の違い/松本 曜一

 月命日に伺った御門徒さんが涙を流しながら私に訴えました。

『老健施設のショートステイでお世話になっていましたんや、夜中にトイレに行きたくて看護師さんを呼ぶブサーを押すと女性の看護師さんが飛んできて、
「今夜は私一人で忙しく走り回っているのやからウンコとオシッコ一緒にしなさい!」とかなりきつい口調で指示された』と。

「私はご存じのように半身麻痺で動作が遅く同じ老人の人からも朝の洗面所では、ドンクサイナアさっさとしないと後がつかえるとよく叱られます。
 それでなくとも他の人に気遣いしているつもりで自分が出来ることを自分でするように頑張っているんですがウンコとオシッコ一緒にしろといわれてもそんな都合良く行きまへんやろ。
 何でそんなにきつく言われんならんのか、悔しいやら悲しいやら、情けないやらで一週間泣いて暮らしてまんねん。」と老女が語る。

 介護保険制度が制定されて施設は出来てるものの、充分訓練され教育されている職員も不足気味の施設の様子が伺われる、その施設を利用されている年寄りやその家族から苦情を何度か聞かされた。

 それとは逆のケースなのですが、ある病院の介護病棟に勤める看護師さん数人と食事会合の機会があってその方達の日常の介護の様子を聞かせてもらっていましたら先の老健施設のケースと対応が全く違っていました。

 一日に四、五回のオムツ交換の時の様子なんですがその人達は、コテコテに固まったウンコを丁寧に拭いて「どう気持ちよくなった?」と患者さんに声をかける。

 返事が出来る人や出来ない人、様々ですが必ず声掛けをすると言う。病院の規定でおむつ交換回数が決められていて肌の弱い人はオムツかぶれしかけているので清拭後、即オムツを付けるのでなく、少し風を送り、お尻を乾かしてから丁寧にオムツをしてあげていると云う内容の会話でした。

 前者と後者の看護師さんの違いは何処から来るのでしょうか。介護する人の行為、行動の違いは単にマニアル的教育や指導の問題だけでなくその人の生き方や、仕事に向き合う姿勢の違いではないかと思うのです。
 また、生き方のバックボーンとしての信仰心の有無の影響と言っても過言ではない様に思います。

  かつて、重度の障害の子どもの施設で献身的にお世話をされていた保母さん達の集団との出会いがあり沢山学ばせて頂きました。健常者である介護側の職員中心のスケジュールで動く人は一人もなく常に障害のある子どもを中心に取り組みがなされてありその人達の献身的な日常に感動を受けました。それは、単に教育だけでなく信仰生活が柱になり日常の反省会もとても深い人間関係で支えられていました。敬虔な信仰に裏付けされ、祈りと共に仕事があり、願いをもって子ども達と接しておられる姿に尊さを覚えたものでした。

 自分の家族のため、自分の都合だけで働いていて、介護を仕事と割り切り給料分だけ働けば良いと考えていると「ウンコとオシッコ一緒にしなさい」と言い切れるのかも知れません。しかし、人間の心身、生理はそう都合良く合理的に出来ていません。ハンディのある患者さん中心に動けるか、自分中心に動くのかが問題です。後者の看護師さんは患者さん側に立てる心の余裕が有るようです。よくよく話を聞くと、その方は、深いところに願いを持っておられました。介護の仕事を選んだのは介護の世界で良い仕事をしたいと云う願いを持っておられました。そして、自分の担当の患者さんとしっかり出会っておられる様子が伺えました。そしてそこには患者と介護者の「物語」の展開を伺い聞くことも出来ました。身体は辛いが精神的にはやり甲斐と充実感があると言われます。お年寄りのお世話に誇りと生き甲斐を見いだしておられるのです。ただ給料分だけ働いたら良い。時間だけ居たらよいと言う人たちが多い時代。仕事に情熱を持ち誇りと尊さを感じて向き合える介護の仕事。それに携わる人の上質の「願い」、深い「願い」が日常の行動を支えているように感じました。

 このケースを通して、私自身僧侶として、毎日の月忌参りの時々に、自分勝手な対応をしているのではないかと自問自答させられています。私たちは常々ともすれば、個人(僧侶側)の都合、個人の身勝手な願いに奔走しているのではないでしょうか、遠く離れた処に阿弥陀様の「本願」を置き去りにしたり敬遠して、日常生活に於いては個人の身近な願いに振り回されているのではないでしょうか。

 日常生活を営む中で生活者としての「願い」の質の違い、「願い」のレベル深さの違いに気づかされると自身の現状に恥ずかしく思うことがあります。ともすれば、個人の小さな願いで右往左往している自分のお粗末な姿に身が引き締まる思いでおります。

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Last modified : 2014/01/10 21:12 by 第12組・澤田見