二つには内楽

さて、曇鸞(どんらん)様は「二つには内楽(ないらく)」とおっしゃいます。これは曇鸞様の使われたお言葉でいただいたら「意識(いしき)所生(しょしょう)の楽」です。意識(心)の中に受ける喜びという意味です。

私はテレビをほとんど見ないのですが、それでも、去年の年末にニュースを見てびっくりしました。中学生の子供が高等学校へ入るための塾に行っているその生活ぶりにです。十二月の三十一日まで塾へ行くのですね。塾の休みは元日だけです。もう二日から塾へ行きます。凄まじい生活ですね。遊ぶ時間なんて全くない。

だけど、アナウンサーが「冬休みも、お正月の休みもないのですか? 遊びたくないですか?」と質問したら、一人の中学生がにっこり笑って「でも、分からなかった問題が分かった時は嬉しいよ」と言うのです。

この喜びが「内楽」です。外は一見厳しいのです。どう見ても喜びが無いように思える。でも、中は違うのですね。分からなかった問題が解けたときは何とも言えない嬉しさがあるのです。中には、燃ゆるような喜びがあるといえるのです。これが、曇鸞様が心、つまり「意識より所生(しょしょう)の楽なり」とおっしゃる内容なのです。

それは「法楽」

もう一つ、三種ありとおっしゃるからもう一つあります。それを曇鸞様は「法楽(ほうがく)の楽(らく)」とおっしゃいました。この楽について曇鸞様は「いわゆる智慧(ちえ)所生(しょしょう)の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起これり」と述べられています。ここでおっしゃる「智慧」は仏様のさとりの智慧のこと、また「功徳」とは仏様の成し遂げられた勝(すぐ)れたはたらきという意味です。いわゆる仏法に親しむことでいただく喜びなのです。すなわち仏法からいただく喜びです。

先の二つ、「外楽」と「内楽」は、「三帰依文」で言えば「人身(にんじん)受け難(がた)し今すでに受(う)く」でいただく喜び。三つ目の「法楽の楽」は「仏法聞き難(がた)し今すでに聞く」の喜びなのです。

桜の花を喜んだり温泉につかって喜んだり、体は厳しいけれども心の中に生れる喜びは、人間の努力によってどんどん作られていくのです。政治家に良い政治をしてもらったらこの喜びが増えます。お金が豊かに回れば経済が豊かになって、この喜びも増えていきます。これは人間の喜びなのです。

しかし、この「外楽」「内楽」には二つの問題があります。

一つめは現在だけを対象にした喜びだということです。常に変わらずにある喜びだとは言えないのです。私のお寺に一本の紅葉(もみじ)があります。けっこう毎年、紅葉して綺麗です。私の部屋が二階にありますので窓から見ると、とても綺麗です。

だけど今年はさっぱりでした。あの厳しい暑さでもう枯葉のようです。紅葉は木の幹が弱いですからね、幹に太陽が当たるとガックリと弱ってしまうのだそうです。

去年は喜べたけれど、今年は喜べない。見れば見るほどがっかりするのです。「外楽」「内楽」は、常にあるとは限らないという、問題を抱えているのです。

二つめには直覚(ちょっかく)によっていただく喜びだということが問題です。直覚とは、自分の感じたこと、つまり感覚です。

桜の花を見ても、そんなに喜ばない人っているじゃないですか。皆さんは、紅葉を見に行かれましたか。何を隠そう、私はわざわざ観光バスに乗って一日時間をあけて紅葉を見に行くというのが、どういう心持ちかよく分からないのです。

実は私、紅葉とか花見とか特別に行ったことがないのです。あれは、やっぱり喜ぶ人が行かないとダメですね。私みたいにひねくれた者は、せっかく観光バスで行っても嬉しくないのです。

その人によって違うのです。その人の感覚によって違ってくるのです。皆な同じように感じるということは無いのです。

本当の喜び「極楽」

それに対して仏法からいただく喜び、「法楽(ほうがく)の楽」を「極楽(ごくらく)」と言います。

極っていう字は、亟だけでもゴクと読むのです。亟の字一つで意味があるのです。これは皆さんのお家の辞典にちゃんと書いてあります。端から端までという意味があるのです。

端から端まで通っている木を知っていますか。鉄筋コンクリートの家はダメですが木造の家には、必ず一本端から端まで通っている木があります。何の木ですか。もし皆さんが木造に住んでいたら必ずあるのですよ。

(会場から)「通り柱」。

(同じく会場から)「梁(はり)」。そう梁が正解です。あれは一本で端から端まで通っているのです。床の間の柱は天井裏で終わっています。だけど梁は端から端まで通っている。

本当かなと思ったら今日お家に帰って天井裏覗いてみてください。途中で足さない。途中で途切れない。一本すうっと通って、しかもその梁は家の中の一番高いところにあるのです。梁の上はもう屋根です。そういえば「極上」は、「この上のない」の意味でしょ。極上の鰻丼(うなどん)とかね。「極」とは「端から端まで通るこの上ない」という意味です。

今、私がいただいている喜びが人生を貫いてあの世まで続いていく喜び。それを本当の喜び「極楽」というのです。これが「法楽の楽」なのです。だから、温泉へつかったぐらいで極楽って言わないでくださいね。あれは、ひと時のつかの間の喜び。「極楽」は、今ここで喜んでいることが私の人生を貫いてあの世まで届いていくのです。

この世とあの世を貫いた喜び

「三帰依文」て、そういうことでしょ。頭の「三」は、仏(ぶっ)法(ぽう)僧(そう)の三宝(さんぼう)、それは、仏様(仏)と仏様の教え(法)と、それを喜ぶ人々、ここにいるお仲間(僧伽(さんが))です。

「帰依(きえ)」とは、死して帰る世界。依は生きて拠り所となるもの。今ここで私の生きて拠り所となる、頼りとなる、あるいは力となる、その世界へ私たちは帰っていくのです。帰っていく世界が、そのまま今ここの力なのです。

今ここの力、喜びがそのまま帰る世界。そんなもの皆さんにありますか。たとえば、お金は貯めれば貯めるほど、死ぬに死ねない心境になるのじゃないですかね。私は貯めたことないから分からないですが。あるいは、健康が大事だと、健康だけをつかんでいたら、死ぬことを忘れるのです。死ぬことがいよいよ怖くなるのです。

今私たちがつかんでいる幸せは、つかめばつかむほど死ぬに死ねないのです。金さん銀さんがご存命の時は、皆さん観光バスに乗って金さん銀さんのお宅まで見に行かれたのですよ。ところが亡くなれたら、ほったらかし。誰も行きません。

何度も言いますが、三帰依とは私たちが死して帰る世界です。しかし、それがそのまま生きて喜ぶ力になるのです。この時に、生きていることと死ぬこととは一つに繋がっています。これが本当の喜びなのです。「極楽」とは、この世とあの世を貫いた喜びなのです。

これに対して、「外楽」は何度喜ぶ材料を作っても、それは所詮生きている間だけのものなのです。死んだら間に合わない。それは喜びには違いないけれども本当の喜びではないのです。

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Last modified : 2020/04/28 17:49 by 第12組・澤田見(組通信員)