
心の鬼は 出て行かず
2月の節分に因(ちな)んだお話しです。
「鬼は外、福は内」、節分の豆まきに限らず、私たちはいつもそう願っているのではないでしょうか。鬼というと、こわいもの、いやなもの、都合の悪いもの、来てほしくないもの、貧乏、病気、年をとること、死ぬこと、泥棒、火事、地震や台風などの自然災害、戦争……。
一方、福というと、都合のよいこと、自分のところに来てほしいもの、お金、健康、名誉、地位、美ぼう、若さ、平和……。
しかし、これらはよく考えてみるとみんな裏と表、片方だけとはいかないようです。ある意味では逃げようがありません。
それ以上に問題なのは、福は来てほしいが鬼は来ていらん、鬼はよその家へ行ってもそれは知らん、人間とは勝手なものです。
「鬼は外 福は内 私の身勝手が豆をまく」です。
私たち人間というものは実に厄介なものです。お金も欲しい、物も欲しい。自分さえよければよい、何かあるとひとのせいにする、いつも人と比べて安心したり、腹を立てたり、うらんでみたり、差をつけて見下げたり、挙句の果ては
「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせばいかなるふるまいもすべし」
で、業縁によって何をするかわからぬおそろしい心を持っています。
「福願う 心の裏に 鬼の顔」の姿です。
親鸞聖人は、このようにうたわれています。
「悪性(あくしょう)さらにやめがたし、こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり」
聖人は、自己の内にみんながいやがる蛇蝎を発見されました。私こそ蛇でございます、蝎(さそり)でございますと、蛇や蝎のような心、鬼のような心と言ってもよいでしょうか、そのような心を見出されました。
あるお婆さんが、孫を相手に無邪気に豆まきをしています。仏法を聞いているお婆さんなら
「鬼は外!待てよ、鬼とはこの豆をまいているこの婆じゃ」
と言って、豆と一緒に外へ飛び出すことになるでしょう。それを見ていたお嫁さんはびっくりします。
「お婆さん、はだしで飛び出してどないしたんや」
「いやいや、鬼とはこの婆や、今、気がついたのや、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
そしたら
「私も鬼やった」お嫁さんも外へ飛び出していく。残っているのは孫だけ。こんなことになるのではないでしょうか。
「豆まきも心の鬼は出て行かず」
と頭が下がれば、角も落ちてお互いに悲しんだり喜んだりの人間同志、みんな同朋と気づかれることではないでしょうか。
信心とは、そのような自分自身を知らされることであります。
(平成11・3・10)
コメント 1件
Last modified : 2014/12/10 3:18 by 第12組・澤田見(ホームページ部)
真宗大谷派の本家に嫁ぎ40年!義父から豆まきはしなくてよいと言い伝えられ ずっと、何故なのか理由を聞きたかったのですが 既に亡くなり
豆まきの事すら 忘れかけておりました!
大変、よく理解できました。ありがとうございました。