
わが計(はから)いにてはあらず
「だれも何も言わんのに、時期が来たら自然に花が咲きますな。」
今や盛りと咲き誇っている桜の花を見上げて、何人かの人がしみじみと口を揃えて感心したように言っていました。
今年も4月を迎え、桜の季節になりました。寒い冬を過ごして来たので、暖かい春がとてもうれしく感じられ、生かされているなという実感が湧き上がって来ます。
これらはすべて「わが計(はから)いにてはあらず」、人間のカや知恵では及ばない自然のはからいです。
4月8日は「お花まつり」、お釈迦さまの誕生をお祝いする行事です。
お釈迦さまは、誕生されてそのまま四方に七歩を進み、右手をあげて、「天上天下(てんじょうてんげ)、唯我独尊(ゆいがどくそん)」(天上天下に、唯、われ独りにして尊し)と宣(のたも)うたと言われています。
これは、「ひとりよがりのうぬぼれ」ということではなく、「地球上で、ただ一人の私の尊いいのち」ということなのです。
いのちというのは、生きているということです。五木寛之さんは、「生きているということは、生かされているということである。そこに命の尊さがある」と書いています。
私たちは人生の生き甲斐や・人生のよろこびとして、たとえば名誉、財産、健康、若さ、豊かな文化生活などと考えています。
しかし、これらは二の次のものです。生かされている一番目は、この身体の心臓が動いてくれている、肺が呼吸してくれている、胃が食物を消化して私の血となり肉となってくれていることなのです。どこに生まれても、どこにいても、どんな時代、いくつになっても、つまり誰(だれ)彼となく皆、無条件で、比べることのできない私の尊いいのちを今ここにいただいているということなのです。
このことは、私一人だけの問題ではありません。私も、ひとも、すべての人のいのちの尊さ、重さには変わりはありません。
ここで思い出しますのは、小林一茶の「花の陰 あかの他人は なかりけり」の俳句です。
花とは申すまでもなく桜の花です。
春爛漫と咲き誇る桜の花の下で、沢山の人たちが花見を楽しんでいます。うっとりと花に見とれている人、なかには花見酒を楽しんでいる人、お弁当に舌鼓を打つ人など……。
これらの人たちに全くの他人はない。
「一切の有情(うじょう)は、みなもって世々生々(せせしょうじょう)の父母(ぶも)兄弟なり」(歎異抄)
みんな懐かしく、どこかで皆さんとつながり合っているのだと詠んでいるのです。
あかの他人はないということは、私たちみんな一人ひとり如来のみ光のもとに、尊いいのちをいただいて生かされている御同朋御同行だというのです。
(平成14・4・1)
Last modified : 2014/12/10 3:18 by 第12組・澤田見(ホームページ部)