蓮
毎日がいのちとの出遇い

 先日、南御堂へ行く途中、地下鉄谷町4丁目の駅で、大阪港行きの電車を待っていた時のことでした。

 駅のホームを清掃する仕事をされているのでしょうか、80過ぎのおじいさんが、目につくゴミを箒(ほうき)で手早く塵取りにすくいあげながら歩いていきます。 

 そのあとから、年もあまり変わらぬ腰の曲がったおばあさん、同じように箒(ほうき)と塵取りをもってついて行きます。おそらく夫婦なのでしょう。

 あんな年になるまで働かんでもよいのに、子どもがいてないんかなどと思うのは下衆(げす)の勘繰りとでもいうのでしょう。

 人生いろいろですが、この老夫婦、見たところ年はとっても、人生を二人して精一杯生きている尊い姿に見えたものでした。

 ある女性の母親が、突然倒れて脳死になり、人工呼吸を装置されて亡くなりました。その女性は、「人間の死をまざまざと見せつけられたせいか、死ぬということよりもむしろ生きていることが不思議でたまらなくなりました」と述懐されているのを新聞で読んだことがあります。

 「元旦や 今日のいのちに遇う不思議」(木村無相)と詠まれていますが、元旦に限らず、1年365日毎日毎日が不思議ないのちとの出遇いではないでしょうか。

 ともすればバタバタ、ウカウカと過ごしがちな毎日ですが、「となえる南無の一こえにこの身かがやくありがたさ」、いのちの不思議さに気付かせていただき、教えを聞いて目を開いていきたいと念じたいものです。

(平成3・7・9)

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Last modified : 2014/12/10 3:20 by 第12組・澤田見(ホームページ部)