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自分のことになると

 大阪教区センターの『教化センター通信』に載っていた話です。

 昔、「うばすて」ということが行なわれていた時、とんでもない男がいて、早く親を捨てられる年になればいいがと待っていました。

 遂にその時がやってきました。その男は、竹で母親の入るだけの籠を編みました。その中へ母親を放りこんで、息子と二人でかわりばんこに背負い、山を登っていきました。やっとのことで頂上にたどりつき、籠ごと親を放り出して山を降りました。

 しばらくして息子が「お父さん、俺忘れ物をして来た。取りに帰ってくる。先に行っておくれ」「何を忘れたんだ」「籠さ、籠だよ」「そんなものもう要らんじゃないか。捨てておけ」「そうはいかん。あんたが要らんでも、俺はいる」「なぜ?」「だって考えてみろよ。その内、お父さんを捨てにゃならんだろうが。その時に要るじやないか」

 聞いた父親は、しばらく呆然としていましたが、一目散に山へかけ登り、母を背負って帰ったというのです。

 「子どもは、親の後ろ姿を見て成長する」とも言われますし、また、「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」という諺(ことわざ)もあります。

 この場合も、父親が息子に教えられて、親不孝者が急転直下、孝行者に変わったことになりますが、大事なことは、親を捨てることに何ら問題を感じなかった男でも、自分が捨てられるということに気づいた時に、「人が死ぬと思うていたのに、儂(わし)が死ぬ。これはたまらん」(一休さん)ではありませんが、えらいこっちゃと自分自身の新たな問題に発展してきたのです。

 身のまわりの慣習、伝統、迷信といわれることなどで、ふだん何げなくしていることでも、自分のこと、自分に降りかかる問題になってくると愕然(がくぜん)となって人ごとではないと、見方・考え方が百八十度変わって、新しい展開を見出していくことが多いものではないでしょうか。

(平成5・7・9)

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Last modified : 2014/12/10 3:20 by 第12組・澤田見(ホームページ部)