
他力本願
日本中のお寺や神社に行くと、たいがいどこでも窓口でお守りやお礼を売っています。また、いろいろな祈祷も受けつけています。
ところが、真宗本廟(東本願寺)や各地にある別院をはじめ、浄土真宗のお寺だけは、どこへ行ってもそのような情景は見当たりません。(拝観料などもとっていません)。
真宗のお寺も、お守りやお礼を売らはったら、祈祷もしゃはったらもうかりまっせと言われそうです。責任を持てないことはできないということにもなりそうですが、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ真宗寺院の良識ともいうべきもので、真宗こそ「自覚の仏教」「真実の教え」といわれる由縁のものであります。ある意味では、真宗寺院の面目というか、値打ちでもあると思うのです。
一般に、商売繁盛、家内繁栄、無病息災、交通安全、健康長寿、合格祈願、さらにはボケ封じ、ガン封じ、ポックリ往生などさまざまです。
そんなもの、祈ってもなるものはなる、ならんものはならんと頭の中で割り切っていても、人間というものは弱いもの、何かあれば藁をもつかむ思いになります。
しかし、これらは皆自分に都合のよいばかりを願う姿で、いわば、気休めだけのご利益を追い求めているように思われてなりません。
嫌なことからはだれしも逃げたくなるのは、いつの時代でも同じです。
逃げられるうちはよいのですが、逃げたくても逃げられない事実があります。健康長寿祈願も病気封じも、交通安全のお札も、全くそれが役に立たなくなってしまう現実を知った私たちは「自力」が無効であることに目覚まされるのです。
自分のカではどうしようもない、目に見えない大きなはたらきに気づかされるのです。これが「他力」です。
すべて如来のはからいといってもよいでしょう。他力本願とは、他人まかせということではなく、如来の願いに生かされて力強く生き抜くことなのです。
(平成11・6・9)
Last modified : 2014/12/10 3:20 by 第12組・澤田見(ホームページ部)