鷺草
阿弥陀仏は、光明なり

 昔と違って田圃(たんぼ)も減ってきました。残っていた水田の隣に店舗ができ、四六時中電灯がついていると、稲は、ひょろひょろと徒長して実が入らないといいます。稲はもちろん、動植物には夜の闇が必要なのでしょう。闇があるから朝の光がありがたいのです。

 と言っても真っ暗闇ばかりでしたら、まっ暗で何も見えません。

 科学が発達し、学問が進んだ時代ですが、私の心は闇、「無明闇」(むみょうあん)と言われます。

 日常生活の中でも、真っ暗闇でしたら、足もとに突き当たるもの一つ一つが腹が立つ、愚痴になる、嘆くことが多いのではないでしょうか。

 そうでなくても、「年をとるのは嫌や」、「病気になるのはかなん」、「死ぬのは、なおさら嫌や」と人生も嘆き節です。

 雨が降ると、「雨が降ってうっとうしいなあ」、夏になると「暑い、暑い、暑いのはかなん」、冬が来ると「寒い、寒い」、春や秋の凌ぎよい季節も「いい時はちょつとだけや」と毎年毎年愚痴の連続です。

 しかし、私にとっては嫌な雨でも、傘屋さんは雨が降らないと商売にならないし、草木にとってもありがたい雨なのです。暑い暑いとぼやいてばかりいますが、若い人は泳ぎができるし、山登りもできます。

 闇の中で、頼りになるのは光です。光をいただくことによって気づかせてもらい、智慧をいただいて、心の目が開かれるのです。

 何人かの人が漁船で海釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまいました。あわてて帰りかけましたが、潮の流れが変わったのか混乱してしまって、方角がわからなくなりました。月も出ていません。必死になって灯(ともしび)をかかげて方角を知ろうとしますが見当がつきません。

 そのうち、一同のなかの知恵のある人が、灯を消せと言います。不思議に思って灯を消しましたが、あたりは真の闇です。しかし、目がだんだんとなれてくると、まったくの闇と思っていたのに、遠くの方に浜の町の明かりが、ぼうーと明るく見えてきました。そこで帰るべき方角がわかったというのです。

 そう言えば、昔、まっ暗闇の部屋にいて、朝がきますと、雨戸の節穴から光がさし込んで一本の線になってキラキラと輝いていました。

 まわりがまっ暗闇なので、一筋の光明がありがたく拝まれるのです。

「阿弥陀仏は、光明なり。光明は、智慧のかたちなりとしるべし。」(『唯信砂文意』)

「弥陀の誓願は無明長夜のおおきなるともしびなり。」(『尊号真像銘文』)

と教えられています。

(平成13・7・2)

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Last modified : 2014/12/10 3:20 by 第12組・澤田見(ホームページ部)