南天の実
私を動かす心

 正月早々、愛用の手提げかばんをコソ泥に持っていかれました。外出しようと服に着替え、かばんを玄関に置き、トイレに行って戻ってきたらなくなっていました。ものの一分もたっていません。いつも門をあけてあるので用心も悪いが、全く油断もスキもありません。

 

 交番へ届けておいたほうがということで、被害届を出しに行きました。大事なものも入れてありましたが、すぐには全部思い出せません。時間が経ってからあれも、これもと思い出す始末です。

 さすがその晩は、腹立たしいやら情けないやらなかなか寝つかれませんでした。

 昨年も、玄関の階段に置いてあったお経本入れの袋物を、二階にあがっていたスキに持っていかれました。

 幸い、翌日の夕方、南のほうの方が、前栽の塀の近くに落ちてあったと(投げ込まれたらしい)親切に届けていただきました。

 今度は少々金目のものもあり、返ってきそうにありません。

 せめてかばんだけでもと、通り道のかたわらに捨ててないか、塀の中に投げ込まれてないか、なかなかあきらめきれないものです。理屈ではわかりながら執着心が捨て切れません。

 「ある奥さん、ちょうど盛り場で財布をすりとられた。『とられたと、盗人ばかり責めるのでもなく、ドジな私と自分を責めるのでもなく、そういうめぐり合わせ、成り行きでそうなった、と受け止めたら、少し楽になりました』---少し楽になったといわれるが、程度の差だけの話でない、実はもうまったく楽になる方向に、身(み)全体が転じられているのだ。」(亀井 鑛氏『聞法100話』)

 事実を事実のままに受け取るところに立てば明るくこだわりなしに受けていける、されたのでもない、したのでもない、なったのだ。これが人生の受けとめ方の基本なのだと亀井氏は書いています。

 しかし日常、頭ではよく分かっているのに、それでもなお探さずにはおられない心、なお愚痴らずにはおられない心のなんと多いことでしょう。そのような自分にわからないところで、私を本当に動かす心のあることにわれながらはっと気の付くことがあります。

 以上はごく一例に過ぎませんが、日常生活の中で、いろいろな場で、「私の中で、私を本当に動かす心」を教え、気付かせていただくのがお念仏ではないでしょうか。

(平成2・1・22)

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Last modified : 2014/12/10 3:22 by 第12組・澤田見(ホームページ部)