蝋梅
ひとえに本願をたのみまいらせる

 「病気が治ってこんなうれしいことはありません。これも仏さんや神さんのおかげやと思てます」と喜ぶ人もあれば、「こんな目に遭うなんて、この世には神も仏もあるもんか」とボヤく人もいます。病気の時などは、主要には自然の治癒力と医師の援助が大きいとは思いますが、神様も仏様も喜ばれたり、ボヤかれたり忙しいことでしょう。

 よく、「困った時の神だのみ」と言われますが、ふだん神仏に手を合わせたことのない人でも、病気にでもなると「早く病気が治りますように」と神仏にお願いする気持ちになるのでしょう。

 私たちの気持ちの中には、どこまでも自分の思い通りになって欲しいという思いがあります。だから、都合のよいことは来て欲しいが、都合の悪いことは来て欲しくない。自分の思い通りにいきそうにもない時は、何かに頼って思いをかなえてもらおうとする虫のよい気持ちになってしまいます。こうなると、たのんだり、祈ったりする相手が神であろうと仏であろうが、どちらでもよいのです。

 しかし、「祈れば神、拝めば仏」と教えられていますが、祈る心は何かをたのむ欲望の心であり、拝む心は報恩感謝の念です。神にたのむ心は、いわゆる家内安全、商売繁盛、無病息災などであり、幸せになりたいと願う心でしょうが、これは個人的なものであり、自分さえよければというエゴイズムの表われに過ぎません。このような勝手な願いを満たしてくださる神様があるでしょうか。

 「たのむ」というのは漢字では普通「頼む」と書きますが、これは自分の思い通りにしてほしいと願う意味です。

 親鸞聖人は、仏を「たのむ」という字に「憑」の字を用いられています。この「憑(たの)む」は「帰命」の意味です。

 自分の思い通りにならない人生の事実を通して、本願の真実を聞き開き、広大な願いの中に生かされているわが身の真実に目覚める時、「善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらせ」、明るく堂々とこの人生を生きぬく道が開かれるのです。

(平成4・12・1)

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Last modified : 2014/12/10 3:22 by 第12組・澤田見(ホームページ部)