シクラメン
浄土とは、ものさしのいらない世界

 雨が降って「いい雨」と言う人と、「嫌な悪い雨」と言う人がいます。しかし、いい雨、悪い雨という雨はどこにも降っていません。自分に都合がよければ「いい雨」、都合悪ければ「わるい雨」になります。自分のものさしで雨を作ってしまっているのです。

 このものさしは、いろいろな所で顔を出して来ます。

 「大阪は地震もないし、水不足もないし結構でんな」「地震のないのは今だけのことで、また、大きな地震がくるかわかりませんね」と話していましたが、1月17日の午前5時46分ごろ、マグニチュード7.2の「阪神大震災」が突如として発生し、大阪も震度4の大きな地震となりました。本当に「まさか」でした。

 「あの人にくらべたら、わて結構や」「あそこの家にくらべたら、うちのほうがまだましや」……

 日常的に、私たちはひととくらべてみて安心したり、時にはみじめな思いになったりして一喜一憂しているのではないでしょうか。

 しかし、一歩下がって振り返ってみると、人とくらべるということは、時には人を見下げることにもなり、そういう意味では残酷な喜び方になるともおもわれます。人はだれでも健康でありたい、愛情がほしい、お金・財力がほしい、地位・名誉がほしい、能力や若さを誇りたい気持ちがあり、こういうことが幸せだと思っています。しかし、これらのことも長続きするとは限りません、無常の世の中、明日の日にでも突き崩されてしまうことにもなりかねません。

 「ただ、ありがたいことに、(そのような)ものさしをもつ自分の姿を確かに知ることができた時、ひとは同時にものさしのいらない世界を知り、その世界にふれることができるのです。浄土真宗では、このものさしのいらない世界を、阿弥陀の世界、浄土と申しております。」

 「ひとは、自分のものさしを決してすてることはできないけれども、浄土にふれることにおいて、ものさしを武器として、他を傷つけずにおられない自分の存在を悲しみ、その愚かさに気づかされることにより、まわりに対して、『ごめんなさい』『ありがとう』と、言わずにおられないひとの心をとり戻すことができるのです。」と書いておられる平野恵子さんのことばに耳を傾けたいと思うのです。

(平成7・2・9)

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Last modified : 2014/12/10 3:22 by 第12組・澤田見(ホームページ部)