万作
帰っていくところ

 最近、自己責任という言葉をよく見かけます。一人の人間として生まれ、生き、死ぬ。その厳しさへの覚悟を自己責任と言っているようでした。すべて御縁をいただいている身として、自分の責任だけで割り切れるのかどうか。

 『大無量寿経』の中に「世間愛欲の中にあって独生(どくしょう)・独死(どくし)・独去(どっこ)・独来(どくらい)す」と説かれています。まさに、私たちは無常の世界を無常の身をもって、だれにもかわってもらえない人生を生きています。

 さて、「あなたは帰っていくところがはっきりしていますか」と聞かれたらどう答えますか。「まだ若いから、ゲンクソ悪いこと言わんといてんか」「ひとのことや、ほっといてくれ」と言う人もあるでしょう。また、「そんなことわからへん。死んでみんとわからん」「それはみんな阿弥陀さんにお任せしてある」と言う人もあるでしょう。

 昔、映画でこんなシーンがあったようです。「貧しい農家の老婆が、一日の野良仕事を終え、大八車を引いて帰る途中、ふと美しい夕焼けに目をやり、車に乗せた孫に向かって言いました。『ばあちゃんはなあー、死んだらあの夕焼けの国に行って、アミダさんと一緒に暮らすんや、何の苦労もないそうやし、美しい世界なんやそうや』(その老婆の顔の表情が何とも言えずよかった)『死なはったじいさんも待っててくれはるんや…』再び重い車を引きながら、背中ごしに孫に言いました。『あんたもええ子になりいや』」(加藤智見氏『宗教のススメ』)

 ずうっと昔のころは、御縁が尽きたら、お浄土へ還らせてもらうと思いながら、みんな安らかに生きていました。

 しかし、現代は、衣食住とも豊かになり過ぎ、死ぬことを忘れ、または死ぬのが嫌だとこの世にしがみついて生きているのではないでしょうか。

 親鸞聖人は「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり」(『歎異抄』)と教えてくださっています。「かの土」とはいったいどこなのでしょうか。

 私たちは、御縁によってこの世に存在していますので、御縁が尽きたらもとに帰るのです。金子大栄先生は「お浄土はふるさと」と言われます。もとに帰るということはふるさとへ帰るということです。私という命になってくださったもとの大なる命のふるさと(無量なる命の世界)へ帰らせてもらいます。それが「帰命無量寿如来」です。

 私たちの父や母、多くの先輩もお念仏をいただいて、無量なる命のふるさとへ帰らせてもらいました。帰命というのは、命のふるさとへ帰るということなのです。

(平成9・2・8)

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Last modified : 2014/12/10 3:22 by 第12組・澤田見(ホームページ部)