千両の実
南無阿弥陀仏をとなうるは

 「しょっちゅう南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えていた老婆が死んでから閻魔さまの前に連れてこられた。さてこの老婆、地獄へ送るべきか、極楽へやるべきか、閻魔さまの裁判が始まった、老婆は閻魔さまに申し上げた。『私は一生涯いつも念仏を申してまいりました。私の唱えた念仏はこのつづらにいっぱい入っております。どうぞお調べのほどお願いいたします』

 閻魔さまは、感心な老婆だと思って家来の赤鬼にその南無阿弥陀仏のつまっているつづらを開けさせた。閻魔さまがそのつづらの中の念仏をみると、どれもこれも空念仏で、一心に唱えた念仏は一つもなかった。だがよく調べてみると、ただ一つあった。それは雷さまが落ちた時に、思わず大声をあげてこの老婆が唱えた本当の念仏であった。他の念仏はいずれもいいかげんの念仏であった。」

 ただ一心に念仏せよということをすすめた子どもだましのようなたとえ話ですが、私たち真宗のお念仏はそのようなものではありません。

 親鸞聖人は、『尊号真像銘文』の中で、善導大師の銘文を取り上げ、一切衆生にあたうるなりと、お念仏の功徳(すぐれたはたらき)を三つ教えてくださっています。

 一番は、「南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるとなり」です。聖人はまた「如来、微塵(みじん)世界にみちみちたまえり、すなわち、一切群生海(ぐんじょうかい)の心なり」とおっしゃっています。一切群生、すなわち、生きとし生けるものの心にまでなってくださった仏、阿弥陀仏はまさに一切衆生の生命そのものです。今朝も、眼があいて生命をいただきました。今私が生きていることはものすごいことであり、すばらしい事実です。私の生きている全体がお念仏なのです。

 二番は、「南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち無始(むし)よりこのかたの罪業(ざいごう)を懺悔(ざんげ)するになるともうすなり」です。努力しても立派になれないものお互い人間同士、愚痴を言い、悪口を言い、腹も立て、お互いに傷つけ合って生きている私たちが救われていく道は、ただ阿弥陀仏を深くたのみまいらせることしかないのではないでしょうか。

 三番目、「南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち安楽浄土に往生せんとおもうになるとなり」で、死んでからだけでなく今の私が自分勝手な迷いの生き方と別れをつげて真実に目覚めて生きること(往生)ができるのです。

 この時代、私たちは南無阿弥陀仏の願いに生かされるほか、真実に生きることができないものと思われます。南無阿弥陀仏と唱えるところに新しい世界が開かれてくるのです。

(平成10・12・1)

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Last modified : 2014/12/10 3:22 by 第12組・澤田見(ホームページ部)