ふきのとう
「念仏もうさるべし」

 毎年元旦を迎えると、思い出されるのは、『蓮如上人御一代記聞書』の第一条の道徳、念仏もうさるべしです。

 

 勧修寺(かじゅうじ)村の道徳という人が明応二年の正月一日に山科御堂の蓮如上人の御前に、年頭のご挨拶におうかがいしたところ、蓮如上人は、道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。(以下、略) と、仰せになりました。

 この時、蓮如上人は79歳でした。

 年頭のあいさつというと「明けましておめでとう」と言うのが一般常識です。「道徳は今年でいくつになられたか。道徳、年を一つとったことにつけても、いよいよ念仏を申されよ」は、ひとごとでなく、むしろ私自身に言われている言葉のように思われるのです。年齢を問われているのではありません。老いも若きも関係ありません。「あぶないぞ、目を覚ませ、お前は何をしているのか。信心決定して念仏申せ」とおっしゃっているのです。

 念仏というと、南無阿弥陀仏と称えることですが、ご利益(りやく)を願ったり、自分の心の安らぎや修養のために使ったりするのは、念仏を利用し、手段として使ったりしているのであって、念仏を正しく受けとめているとは言えません。

 善導大師は、南無阿弥陀仏の「南無」というのは「帰命」ということであると言われます。「帰命」とは、自分中心な思いに立った生き方をしていた私が、阿弥陀仏の本願を聞き、うなずき、真実なる生命の声にうながされて阿弥陀仏に全面的に頭が下がるのです。

 念仏とは、「弥陀をたのむ」ことです。「弥陀をたのむ」と「弥陀にたのむ」とは全く意味が違います。「弥陀にたのむ」という場合は、自分の思いをかなえてもらおうと仏さまに頼むことで、このこと自体が自力であり、迷いなのです。「弥陀をたのむ」とは、自力の無効なこと、迷いであることに目覚めて、自力をひるがえして弥陀を憑(たの)むことです。

 この「憑む」(たのむ)は、お願いや注文の心を捨てて、幸も不幸も、善も悪も、生も死もすべてを弥陀に託しきって安心して日々を過ごすことのできる確かな足場を見出し、本当の意味での生きる勇気を賜ることなのです。

(平成14・1・1)

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Last modified : 2014/12/10 3:22 by 第12組・澤田見(ホームページ部)