「居場所」/高間 重光

「助かるということは、居場所が与えられるということである」とは、金子大栄師の遺された言葉です。

 私たちはいつも、自分の居場所を探しながら生きています。自分にとって少しでも居心地のよい場所はどこだろうかと探しています。 たとえば電車に乗れば、必ず自分の座る場所や立つ場所を探していますし、研修会に参加しても、お寺にお参りしても、必ず自分の座る場所を選んでいます。

 同じように私たちは、ご近所付き合いの中で、友人との付き合いの中で、職場の人間関係の中で、少しでも自分にとって都合のよい、居心地のよい場所を探そうとし、またそういう場所を作り上げようとします。

 時には家族の中でさえ、そのようなことを意識してしまうことがあります。

 けれども残念ながら私たちの自分の居場所探しの努力は、決して報われることはないのです。

 なぜなら自分にとって好都合な、居心地のよい場所を探し、作り出そうという意識そのものが、私たちの世界を狭いものにし、居心地の悪い場所にしているからです。

 仏教ではそのような人間の意識を「はからいの心」「分別心」と教えています。
  『大無量寿経』には、私たちが仏教に触れ、お浄土に生まれることによって、「みな、自然虚無(じねんこむ)の身、無極の体を受ける」と説かれています。
 簡単に言いかえれば「真実の教えに本当にうなづけば、そこにおのずと、こだわり障りのない、広々とした世界が開かれてくる」ということでしょう。
  「真実の教えにうなづく」とは、言いかえれば「仏のお心、仏の世界に出あう」ということです。

 天親菩薩は『浄土論』の中で阿弥陀仏の浄土を「究竟如虚空 広大無辺際」と説いておられます。阿弥陀仏の浄土は、虚空の如くであり、広大にして辺際なき世界であるということです。
 そして大切なことは、その仏の世界・お心の広大さに出あうということは、自分の世界の狭小さに気付くことに他ならないということです。
 それは、仏の世界・真実の世界に深々と頭を下げる、南無・懺悔(さんげ)の私の誕生でもあります。

 親鸞聖人はご和讃の注釈で

有量は世間にあることはみな量りあるによりて有量という。仏法はきわほとりなきによりて無量というなり。

と述べておられます。

 そしてそのような仏の世界やお心は、私に先立ってその世界に出あい、そのお心に現に生きて居てくださるお人、によって私たちに伝えられてきます。
 親鸞聖人にとってその人は、師・法然上人でした。したがって聖人は、法然上人を阿弥陀仏の化身として仰いでおおられます。
 私たちにとっても、教えに本当に触れようとする時、その人が具体的に存在しなければならないでしょう。

 さて金子師のこの「助かるとは居場所が与えられること」という言葉には、二つの面があるのではないかと思われます。
 今まで述べてきたのは、個人的な面です。もう一つは社会的な面です。

 4月に本山の同朋会館で、東京教区の奉仕団の方を担当しました。40代半ばまで企業の第一線に身を置き、寺へ帰って住職を継いで6年目ですという方がおられました。その方が「企業の尺度はスピードと効率と利益です。それ以外のものはあってはならないものです。」というお話をされました。
 またその中に、中堅ゼネコンに居てリストラにあい、間もなく肺ガンになり、自殺願望さえ持ったが、そんな中で真宗の教えに出あい救われました、という方がおられました。その方は最後の3日目に「私にとっては、やはり教えが居場所です」とおっしゃいました。
 しかしまた、もう一人の参加者は、最後に「所詮、この世はいす取りゲームですよ」ともおっしゃいました。

 仏のお心は無条件の世界です。けれども現実のこの世界はそういうわけにいきません。能力や年齢や色んなもので人を選別し切り捨てていきます。
 そのようなこの世にあって、遇々(たまたま)縁あってお念仏の教えに触れたもの、そこには否が応にも課題と使命をたまわるということがあるようです。

 親鸞聖人は讃阿弥陀仏偈和讃48首を、

仏慧功徳をほめしめて
十方の有縁に聞かしめん
信心すでにえんひとは
つねに仏恩報ずべし

とうたっておられます。

 昨年の秋、南御堂の報恩講にバスでお参りに来られた岡山県のハンセン病療養所の邑久光明園の元患者の方々とご一緒に昼食をする機会に恵まれました。そして今年5月の交流会で初めて光明園を訪れ、その方々と再会することができました。その病気の症状ゆえに長年、差別と偏見を受け続けてきたハンセン病患者の人々、また明治40年以来の「らい予防法」によって強制隔離という国の政策で、社会での居場所を奪われ続けてきた元患者の人たち。

 金子師の言葉には社会的な一面も含まれているように思われます。聖人の

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、みなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします

もそういう意味の言葉なのでしょう。

Pocket

Last modified : 2014/01/10 21:20 by 第12組・澤田見