お彼岸はどういう意味があるのですか。また真宗ではお彼岸にどのようにすればよろしいか。
春分と秋分の日を中心に一週間、春と秋の「お彼岸」が来ます。この期間に仏教行事として各寺々で「彼岸会」(ひがんえ)が持たれますが、これは日本独自の麗しい習慣であります。
「彼岸」とは文字通り「彼の岸」(かのきし)という意味で、私達が生きている娑婆(しゃば)を「此岸」(しがん)というのに対して、覚りの世界「浄土」をいったものです。仏教の元の言葉でいえば「波羅密」(はらみつ)といい、差別動乱の迷いの此岸から、一如平等の覚りの彼岸に到ったこと、つまり仏道を成就したという意味で「到彼岸」(とうひがん)といわれます。
真宗では「西方浄土」といって、西方を大切にします。「西」は太陽の沈む方向であり、一日の営みが終わって万物が安らかに満足して帰ってゆく場所、即ち全ての存在が最後に帰ってゆく本来の世界を表しています。
春分と秋分の日は、昼と夜の長さが同じで、太陽が真東から出て真西に沈みます。中国の浄土教では太陽が真西に沈むところから、日没の所にアミダ仏の浄土を想って落日を拝んだと伝えられます。四天王寺では彼岸会に落日を拝む行事として受けつがれて来ています。
日本における資料としては「日本後紀」に、西暦806年の春分の日に経典を読ませたという記録があるのが最初です。以来、彼岸に仏教行事を行うようになってきました。
真宗では蓮如上人が五十九歳の時、吉崎で彼岸会を勤められた時の「お文」(おふみ)が伝えられています。その「お文」では、春秋の彼岸は「暑からず寒からず、仏法修行のよき時節」だといわれています。
日々聞法、念仏の生活が真宗門徒の生活態度でありますが、つい日頃は日常の忙しさに追われ、惰性に流されて大切な自分を見失って空しく過ごしてしまっている私達にとって、春秋の時節の折り目、暑からず寒からずのこの彼岸の時節にこそ、日頃の生き様をふりかえり教えに耳を傾けて、本来の自分を取りもどすという「聞法修行のよき時節」であります。
お彼岸には、ただ墓参りやお内仏のおかざりだけに終わらず、進んでお寺の法座に足を運び聞法に勤(いそ)しんでいただきたいものです。聞法を通してこそ、彼岸なる浄土の光に照らされて此岸なる私の迷いの生き様に気づかされ、真実なるものに目を開かしていただくという真に意義あるお彼岸となるわけであります。
(本多惠/教化センター通信 No.39)
Last modified : 2015/02/22 23:38 by 第0組・澤田見(ホームページ部)