仏教寺院で「供養塔」を見たことがあります。また、仏教で「慰霊祭」ということも聞きます。「供養」と「慰霊」は同じことなのですか。
一般に「供養」と「慰霊」は同じように使われていますが、本来の意味はまったく違います。ちなみに「岩波国語辞典」で調べてみますと次のようになっています。
「供養」 死者の霊に供え物をして死者の冥福を祈ること。
「慰霊」 死者の霊を慰めること。
しかし、死者の霊魂の存在を認めることのない仏教に、死者の霊を慰める儀式があるはずはありません。供養は仏教にあって大切な事柄でありますが、「死者の冥福を祈る」ためになされることではありません。
仏教で「供養」とは、「仏・法・僧の三宝、及び父母・師長に食物・衣類等を供給すること」をいいます。「仏・法・僧の三宝」は私たちに真の「生まれた意義と生きる喜び」を見出さしめて下さる人生の宝です。「父母」は私の大切な心身を養育してくださった親です。そして「師長」は大切な教えを直接授けてくださった恩師です。
このように私たちの心身を護持養育してくさった大切な宝や人々を敬い、尊び、物心両面において謝念を表すことが供養なのです。
ところが、人間はお互いに純粋なものではありません。生前充分な孝養もできなかった後ろめたさもあり、亡き人に対して申し訳ないという思いも起こりましょうし、ことによっては「恨みを持って死んでいったのではないだろうか」と思われたりもします。
さらには「のろい、たたり」を恐れて、亡者(霊)を慰め、冥福を祈るために供え物をするということにも思いが働くわけです。
現代における代表的なものが「水子供養」でしょう。慚愧(ざんき)の気持ちのないものは人間とは言えませんが、しかし供養することによって罪を帳消しにし、自分の功利心を満たそうとするならば、それは非人間的な行為と言わざるを得ません。
「戦争犠牲者法要」も、もし「慰霊・鎮魂」の気持ちで行われるならば、それは「気の毒だ」という高慢な感情の表れか、「安らかに眠って、恨みをもって、たたったりしないでくれ」という、利己的な功利心の現れと言えましょう。そのような「慰霊・鎮魂」は、仏教(特に真宗)ではないばかりか、むしろ非人間的な心と言わざるを得ません。
仏法を尊び、父母、師長をはじめとするあらゆる人々を敬っていける正しい「供養」は、如来の本願を憶念(おくねん)し、お念仏申す心において自ずから身にそなわってくるものと思います。
(本多惠/教化センター通信No.67)
Last modified : 2017/02/28 20:33 by 第0組・澤田見(ホームページ部)