問い

本願寺が、東と西に分派されるのには、どのような歴史的事情があったのですか。

答え

長島一揆の後も、織田信長は何としてでも石山本願寺の地を手に入れようとして、あの手この手を使って攻めてきました。徐々に窮地に追い込まれてきた状勢を見定めて、天正八(一五八〇)年三月、勅使をもって信長は和議を申し込んできます。和議とは言っても加賀の二郡を本願寺に返すから、七月盆前までに石川を退去しろということをはじめとする七ヶ条の条件つきでした。

争いの混乱を避けて顕如上人は、早々に紀州鷺森(さぎのもり)の坊舎に身を引かれました。しかし、このように簡単に和解し、退山することに最後まで賛成されなかったのが、長男の教如上人とその一党、主として加賀衆、雑賀衆(さいがしゅう)でした。

教如上人は、あながち父顕如上人に逆らい、信長に対抗しようとされたのではなかったのです。長島一揆のとき、信長は和議をほのめかして、気をゆるした門徒衆を皆殺しにしたという事実を思い、今回も和議、退山が素直に行われるとは信ぜられなかったからです。

門徒衆のこと、また本願寺のことを思われての教如上人の籠城も長くは続かず、四ヵ月後退山せざるをえなくなられたようです。勅諚(ちょくじょう)に背いた教如上人は、顕如上人から義絶され、鷺森に行っても父顕如上人に会うこともできず、安芸から東国へ、そして飛騨から五箇山のあたりまでも隠れ歩かれました。その後二年近く、天正10(1582)年6月、信長が本能寺で殺されるまで続きました。

信長の死後、それに代わった秀吉は親和的で、鷺森の不便さを察し、本願寺を大阪天満に移されます。秀吉は、やがて京都の街区整備に着手し、本願寺の京都移転を申し出て、六条の地を寄進することになり、本願寺は正式に京都の地に落ち着くわけです。時に文禄元(1592)年のことでありました。

まもなく顕如上人が急逝され、十二代目法主(ほっす)の地位は長男教如上人が継がれることになりますが、翌年になって、顕如方と教如方に分かれた後継者争いが生じ、顕如上人の奥方であった如春尼は、教如上人の母であるにもかかわらず、三男の理光院(後に准如)を推挙し、十二代目当主は准如上人に決定したのです。

その後教如上人は、隠居という形で大坂に寺を建立され、それが現在の難波別院となるわけです。教如上人は、十余年後徳川家康の勧めもあって、本願寺の東側の土地の提供を受けて本願寺を建て、後「東本願寺」と名称されることになったのです。

(本多惠/教化センター通信no.111)

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Last modified : 2015/03/02 18:07 by 第0組・澤田見(ホームページ部)