問い

今年の春、主人が亡くなりましたが、主人は婿養子のせいもあって、生前私の父と仲が悪く、五年前に亡くなった父と同じ墓には入りたくないと申しておりました。母も、父が生前主人のことを嫌っていたのでお骨を同じ墓に入れないほうがよいと申します。どうすればよいでしょうか。

(55歳・主婦)

答え

 かつてよく似た質問に、後妻に入られたあるご婦人が、その夫が亡くなり納骨がすんだとき、「私が死んだら骨をどうしたらよろしいか」と聞かれ、その訳は「先妻が十八年前に亡くなり、私が後妻に入りましたが、今回夫も亡くなりお墓に納めました。せっかく元のさやに納まって仲よくしておられる所に、私が中に入っていってよいものでしょうか」というものです。

 それを聞いて、骨と骨が愛し合ったり憎しみ合ったりすることなんてありっこないのにと、思わず笑い出しそうになったことがあります。

 他人ごととして聞けば笑い話で済まされましょうが、自分の問題となると深刻な問題でありましょう。しかし、はっきり言えることは、死んだ後の問題でなく、今生きている私たちの問題なのです。今生きている自分の思いでもって、死んだ人のことをあれこれ考え、思い悩んでいるのです。

 思いはあくまでも思いにすぎないものです。思いで悩み、思いであれこれ惑っている私たちの世界を、親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもって、そらごとたわごとまことあることなし」と教えられています。よくよく考えてみれば、「そらごとたわごと」のことを深刻に考え悩み苦しんでいるのが私たちであるようです。

 人生は演劇のようなもので、舞台の上での演技である。お浄土は舞台裏のようなものだと言われた先輩があります。この世で争っているのは、あたかも舞台の上で演じているようなもので,嫁姑の争いを演じ、その姑のいやらしさが真に迫っていればいるほど名演技だといわれ、嫁の苦労が大げさに見えれば見えるほど素晴らしい演技だということになります。舞台が終わって舞台裏に入ってみれば、お互いに舞台の労苦をねぎらい合い、姑のいやらしさ、嫁の強情さが上手にできたと称賛し合うことになると。

 私たちの思いを超えて、お浄土は「倶会一処(クエイッショ)(ともに一処(ヒトトコロ)に会(エ)する」世界だと教えられています。この世に生きている間はお互いに憎しみあっていた人同志も、還る世界は皆一つであって、静かな平和な一つ世界(浄土)に帰られたことを憶い、お念仏を申し合わせたいものです。

(本多惠/教化センター通信No124)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)