問い

私は縁あって真宗の教えを熱心に聞くようになったのですが、ところが最近何か窮屈というか、今まで気にもかけなかったことが気になることがあります。例えば、私は魚釣りが好きなのですが、殺生していると思うと気が重くなります。だからといって止めることもできず、割り切れない思いでいます。どうしたものでしょうか。

(42歳・男・会社員)

答え

 真宗の教えを聞くようになって、今まで気にかからなかったことが気になるようになったと言われますが、実に大切なことだと思います。魚釣を楽しんでおられたのに殺生をしていることに気付き、気が重くなったとは、大事なことに気付かれました。

 考えてみれぱ、魚釣りだけが殺生ではありません。身近なことで蚊を殺すことも雑草を引き抜くことも生物の生命を殺すことに違いありません。毎日食事をするのも多くの生物の生命を奪っているのです。私たちは生きる上で殺生せずには生きることはできません。しかし魚釣りは、楽しみのために殺生をするわけですから、その点は考えてみる必要があろうかと思われます。

 最近のテレビ番組で、「生きる」ということをテーマにして五木寛之氏が、「欲望を追求し、快楽を求める生き方は、自動車でいえばアクセルを踏み続けて暴走しているようなものです。必ず事故を起こし遂には自滅します。宗教とは、車でいえばブレーキです。ブレーキが無くては安心して走ることはできません」と言っておられました。

 私たちは、欲望の充足と快楽的な生活を追求し、それが生きる張り合いになっていることも事実です。しかし、それが地球上で共生している、人間をはじめ多くの生命あるものと共に生きる中での私自身の本当の生きる喜びだと言えるでしょうか。

 五木寛之氏の言われることもさることながら、正しい宗教は私たちの生き様を照らし出す鏡であり、「あなたは今のその生き方で本当によいのですか」と、私たちの生き方全体を足もとから問いかえしてくる働きであると言えましょう。

 真宗の教えを聞いて、今まで気にならなかったことが気になりだし、課題になってくることこそ、聞法の効です。それを縁にますます聞法を深めてください。必ずや、大地に足の着いた新しい世界が開けてくるに違いありません。

(本多惠/教化センター通信No131)

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Last modified : 2015/03/02 18:25 by 第0組・澤田見(ホームページ部)