問い

私はお寺の聞法会には必ず出席し、『歎異抄』などもよく読んでいます。しかし、聞法が私の生活に何の力にもなってこないのです。仕事で失敗したとき、「念仏者は、無碍(むげ)の一道なり」と思ってみてもどうにもなりません。いったい身を以って聞くとは、どう聞くことなのでしょうか。

(37歳・男・会社員)

答え

 身を以って教えを聞くとは、別にむずかしいことではなく、道を求める気持を持って努めて聞法の場に足を運ぶことです。昔から、仏法は毛穴から染み込むと言われます。頭で解ろうとするのでなく、開法によって自然(じねん)に身に即いてゆくものなのです。「聴聞」といって、「聴」は努めて身を運んで聴きに行くことであり、「聞」はそのことを通して自から聞こえてくることです。聞こえてくるまで聞くということが、身を以って聞くということなのです。

 聞法をすると、生沽の上に即ご利益があって、悩みや碍り、不都合なことが無くなり、平穏で楽々な生活ができると思い、それが「無碍の一道」であるかのように受け取っておられるなら、それは間違いです。

 真実なる教えとは、その教えを聞くことによってスバラシイ人生が訪れるというのではなく、今現に生きていることに、人生のすべてのことに大切な意味があるのだということに気づかせていただくのです。

 何かの問題に出会ったとき、不思議とこう考えられるのではないだろうか、こうも受け取ることができるのではないだろういう智慧が生まれてきます。その智慧こそ私から出たものでなく、如来より賜りたる智慧なのです。榎木栄一さんの詩に、

またひとつ しくじった
しくじるたびに 目があいて
世の中すこし広くなる

というのがあります。

 仕事で失敗したことは、とり返しのつかない嫌なことです。しかし、そのことによって自分というものが照らされ、気づかされて、自分中心の狭い世界が破られてゆくならば、この失敗でこんなことが教えられ、学ぶことができ、却って人生の味わいが深まり世界が広くなったと気づかされれば、そこにスバラシイ意味を見いだせることになります。

 すると、この人生にどれほど碍りや邪魔ものがあっても、別に恐れることなく、如来の智慧を賜って力強く歩んでゆける。それを「無碍の一道」と教えられるのではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信No132)

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Last modified : 2015/03/02 18:26 by 第0組・澤田見(ホームページ部)