問い

私は最近、お寺の総代になりましたが、先日神社の方からも氏子総代になってほしいと頼まれました。真宗門徒でありながら氏子総代をするのはおかしいと聞きますし、私もそう思います。しかし、私の町の氏子総代は皆んな門徒です。断ると人づき合いが悪いように思います。どうすればよいでしょう。

(66歳・男・無職)

答え

 お寺の総代になられ、神社の氏子総代をも依頼されて戸惑っておられること、実情はよくわかります。現在の日本人の宗教事情は、真宗のみならず、既成仏教に属しながら地域の神社の氏子であり,従ってその地域で人望もあり有能な人は、門徒総代でありながら氏子総代でもある場合も多いようです。しかし、門徒総代と氏子総代では全くその性質や内容が違います。

 門徒総代のお仕事は、寺の経営面にお世話くださることもさることながら、門徒衆の先頭に立って聞法をすることです。そして、親鸞聖人の教えをわが身に明らかにしてゆくことが、総代になった甲斐というものでしょう。

 だから、門徒総代は単なる名誉職ではなく、身を以って「仏法僧の三宝」に帰依し、護持する生活が始まることだと思います。私の生活の帰依処をどこに持つのかをハッキリさせることが、いちばん肝心なことだと思います。単に世俗的な願望をかなえてもらい,守ってもらう神信心に生活の依り所を置くのか、その生活の全体を照らし出す真実の教法─仏法僧の三宝に帰依をするのか。それさえハッキリしていれば、世間のお付き合いの事情も大きく包んでゆけるのではないでしょうか。

 もし門徒総代としてお世話いただき、聞法に精進したいと思われるのなら、中途半端になる氏子総代はお断りになるべきでしょう。しかし、人付き合いの上でどうしても断りきれないのなら、それも仕方ありません。そのままで、三宝に帰依し、深く聞法してゆけば自己矛盾が明らかとなり、自ずと世に処する態度も決定されてくることでしょう。

 蓮如上人は「神社をかろしむることあるべからず」と教えられ、真宗では決して神を軽蔑するものではありません。要は、念仏を申せる身になることです。念仏に生きる人には神は自ずと守ってくださると教えられます。聞法を通して、そのことがうなずけてくれば、周囲の人とのおつきあいを大切にしながら、人生の帰依処をハッキリさせてゆけることでしょう。

(本多惠/教化センター通信No133)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)