私の家は代々真宗ですが、現在、息子の嫁が妊娠四カ月で、そろそろ腹帯を着ける時期です。この間嫁の実家から、安産祈願を受けたという腹帯を送ってきました。真宗では祈願や祈祷をしないと聞きますが、やはり丈夫な子が産まれてくれるため、
祈願をした方がよいと思うのですが、どうなのでしょうか。
(52歳・女性)
初めてのお孫さんでしょうか。腹帯を着ける時期ともなると、喜びもさることながら一抹の不安が心に去来する、そのお気持ちはよくわかります。また実家の方の思いやりの気持ちも有難くいただきたいものです。
ところが、「真宗では祈願や祈祷をしないと聞きますが、やはり丈夫な子が産まれてくれるため、祈願をした方がよいと思う」とおっしゃっていますが、退一歩(たいいっぽ)して考えて、祈願祈祷をすれば、ほんとうに丈夫な子が産まれるとお思いでしょうか。
かつて、ある同朋会(どうぼうかい)でアンケートを取ったとき、「あなたの車に交通安全のお札が付けてありますか」という問いに、大半の人が「イエス」と答えた。さらに、「その理由は次の内いずれでしょうか。(1)みんなが付けているから (2)付けないと不安だから (3)付けていると交通事故が起こらないから」。
結果は(2)の「不安だから」が一番で、(1)が少々、(3)の「事故が起こらないから」と答えた人は一人もありませんでした。
これは他人事ではありません。「ひょっとして」という、私たちの心に潜んでいる迷心です。親鸞聖人は「吉日良辰(きちじつりょうしん)をえらび、占相祭祀(せんそうさいし)をこのむもの」は外道(げどう)であって仏道ではないと教えられます。このように神仏を利用し、神仏に依頼することは、一時の気休めになることはあっても、また新たな不安を生むもとになると教えられるのです。
清沢満之(きよざわまんし)先生も
依頼は苦痛の源なり。財貨をたのめば財貨のために苦しめられ、他人をたのめば他人のために苦しめられ、我身をたのめば我身のために苦しめられ、神仏をたのめば神仏のために苦しめられる
と言われ、その「たのむ心」こそ我われの根深い功利的な自力の依頼心(迷心)であると教えられます。
本願の教えに遇い、念仏申す身とならない限り、交通安全、受験、就職、縁談に至るまで同じように迷ってゆかねばなりません。その不安を縁として、本願の教えに耳を傾けてゆこうではありませんか。
(本多惠/教化センター通信 No141)
Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)