問い

夫が亡くなって一年。お寺さんはそろそろ納骨しなさいとおっしゃいますが、寂しくてそんな気になれません。お骨をお内仏の中に置いていてはいけませんか。

(62歳・女性)

答え

 夫に先立たれ、寂しい日々を送られるなかで、せめてお骨なりとも身近にと思われる気持ちには同感いたします。しかし、今一度静かに私たち人間のあり方を考えてみますと、どんなものでしょうか。

 ハワイで原住民の方々と交流を持たれた方が、「一人の原住民の方が『私たちは大地を母とし、太陽を父として生まれ育ち、現在、生きています。動物も植物も同じ兄弟です』と話された」と感動して話してくださいました。

 まさにそのとおりで、私たちは父母を縁として大地から生まれ、太陽の恩恵をいただいて、動植物と共に生き、ついには大地に帰っていく。これが自然の道理なのです。

 あるお寺のご住職のことですが、ご両親が亡くなったとき、お骨は両親ともに四十九日の忌明法要(満中陰)を済ませた後、墓地に納めました。そして一周忌の法要を終えた後に、分骨したものをご本山(東本願寺)に納骨しました。そのご住職は、門徒の方がたにもこのようにするよう勧めているそうです。

 お内仏はお骨の安置場所のように思われがちですが、お内仏とはどのいう意味をもっているのかということを、明確に知る必要があります。お内仏はご先祖をまつるところではありません。ですからお骨を長い間安置するところでもないわけです。あくまでご本尊として阿弥陀仏を安置するのがお内仏本来の意味です。

 阿弥陀仏の真の姿、形は私たちの目に見えません。そのため、お木像やご絵像、お名号として、象徴的に安置されているのです。阿弥陀仏は無量寿仏ともいわれますように、はかりなき寿(いのち)となって私たちの世界に満ちているのです。その阿弥陀仏の世界が浄土といわれるのです。

 私たちの身(肉体)が大地から生まれ、大地に育てられ、大地に生き、大地に帰っていくように。私たちの「いのち」も、最後ははかりなき寿(いのち)の世界に帰っていくわけです。

 亡き人のお骨に思いが宿っているのはいかしかたないことかもしれせん。しかし、悲しみをご縁として、私たちを生かしめている、はかりなき寿に目覚めていただきたいのです。

(本多惠/教化センター通信 No174)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)