先日、法事の席でお寺さまが、天国と浄土は違うということを言っておられました。もう少し教えてください。
(23歳・男性)
お正月には晴れ着を着て家族そろって神社に詣で、若い人たちは結婚式をチャペルで挙げる、しかし家族が亡くなればお寺さんにお葬式をしてもらうという、ある意味で最も一般的な日本人の生活習慣と言えるものです。
現在の日本の宗教学会では、こういった宗教の現状を不純粋な在り方として捉えるのではなく、むしろ宗教・文化の多様性の中にあって、現在の日本人がお正月、お盆、クリスマスといったさまざまな機会を通して、家族の絆や生きることの意味合いを確かめようとしているものであるとして肯定的に捉えているようです。
このような現状の中で、いよいよ混然としてきたのがご質問にある「天国」と「浄土」との違いについてです。もちろん「天国」はキリスト教の教えであり、「浄土」とは仏教の教えであるということは誰もがある程度の理解を持っていらっしゃいます。加えて「浄土」とは、「西方極楽世界」として説かれていることも多くの方がご存じであるようです。
問題はこの時、「浄土」や「西方極楽世界」を人が死んでから行く「あの世」、「死後の世界」であると理解されることが圧倒的に多いことです。そこで「天国」と「浄土」が混同されてしまうことになります。
実は、このような「浄土」の理解に対して、大きな転換を示されたのが、私たちが「宗祖」として仰ぐ親鸞聖人なのです。
親鸞聖人が示された「浄土」とは、私たちの暗く頑なな心、自分を省みることのない身勝手な思い(実はこれが私たち自身の人生を暗くする根本なのですが)、これを破る真理の働きとして示されました。
従いまして、「浄土」とは、お念仏の教えを聞くことを通して獲得されてくる「真理の働き」であるとして、親鸞聖人は「無量光明土(むりょうこうみょうど)」(限りない光の世界)であるというご理解を大切になさっておられます。
(本多惠/教化センター通信 No205)
Last modified : 2015/02/15 9:55 by 第0組・澤田見(ホームページ部)