問い

仏教では「霊魂不滅」を説くのではないのですか。

(30歳・女性)

答え

 人生も先が見えてくるようになると、「死んだらどうなるのか」ということが気がかりとなってきます。そして、いよいよ死の壁に突き当たると、「行き先が暗い」と歎かねばならない。誰しも「死」は不安で怖ろしい事実であるのに違いありません。

 しかし、行き先が暗いのは、決して未来が暗いのではなく、ただ今が闇(くら)いのでしょう。今の生がどこに立っているのか、どんないのちを生き、どこに向かっているのか、生の全体がハッキリしない。ただ今の生の闇さ、存在の不安が、未来の不安となって脅かしてくるのではないでしょうか。

 お釈迦さまは、死後の世界の有る無しや、霊魂の有無についてはあえて説かれなかったのです。なぜなら、「霊魂が有る」と説けば、私たちはそのことに執われ、霊を怖れ崇りを恐れて縛られますし、「無い」と説けば、「死んだらしまい」と執われ、現世の享楽に溺れ刹那(せつな)主義・快楽主義に陥りかねません。いずれも「有無の見(うむのけん)」に執われて、本当の自分を見失ってゆくことになります。

 お釈迦さまはそんな未来の不確実なことは説かれず、「ただ今の生」を明らかにする目覚めの法を説かれたのです。その教えは「一切は因縁によって生じ、滅するものである。そこには我のものとして執する何ものもない。この道理に目覚めない限り、人間は迷いに迷いを重ねていかねばならない」と教えられました。「我」と執し、「我のもの」と執する何ものも無いと覚める法を説かれたのです。

 したがってこの法に覚めるならば、我とするような実体はすでにないのですから、死後に残るような実体、霊魂も有りようがない。でもそれは「死んだらしまい」ということではない。

 「死んだらしまい」と歎かねばならない我執(がしゅう)が砕かれて、生に執われず死にも執われない、生死(しょうじ)を超えた真実の生、無量寿に生かされる「無生の生(むしょうのしょう)」を、ただ今に頂戴する身となるわけです。

 「正信偈」に龍樹菩薩のお仕事として、「悉く能く有無の見を摧破(ざいは)したもう」とあります。有る・無いに執われ苦しむ私たちの思いを破って、真実の生に目覚めさせてくださるはたらきがお念仏であるということでしょう。

(本多惠/教化センター通信 No210)

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Last modified : 2015/02/11 23:22 by 第0組・澤田見(ホームページ部)