問い

 私は浄土真宗の門徒です。お手つぎ寺のご住職さんは、「真宗は先祖供養をしない、お経は先祖のためにあげているのではない」ということをよく言われます。しかし、他の宗派のお坊さんはほとんど、「先祖供養がいちばん大切です、ご先祖あっての私たちですから」といわれます。私も、常識的にいって亡くなった人を供養するのが本来の宗教だと思うのですが、真宗では本当に先祖供養をしないのでしょうか。またお経は何のためにあげてもらうのでしょうか。

(神戸市・自営業・62歳)

答え

 まず他宗派の人が「先祖供養が一ばん大切です。ご先祖あっての私たちですから」といわれる。その言葉に動かされて、迷っておられるようですが、あなたは浄土真宗の門徒だと、はっきり言明しておられます。それなら浄土真宗の教えに耳を傾けて、そこに立って生きていかねばなりません。人はみな自分の考えで物をいいますが、私たちは真宗の教えを依り所にすることが大切かと思うのです。

 ご先祖とは私にまでなって下さった「いのちの根」なのです。根はよき芽を出し、よく育って、成長し、木となり、花を咲かせよと、願っているのです。諸仏となられたご先祖は、「人となれ、仏となれ」と、願いつづけて来られているのです。それを忘れて、先祖の冥福を祈ったり、加護を願ったりしているのです。「先祖供養をする」と、体裁のよいことをいっていますが、結局はわが身のため、その保全を願ってのことなのです。

 『歎異抄』の中に「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と度胆を抜くようなことを、いっておられます。父母孝養とは亡き父母への追善供養ということです。

 では親鸞聖人は父母孝養のために、一ぺんとして念仏もうされなかったほどの情の強い人であったのか。そうではありません。念仏は如来に回向されたものであり、大行なのです。それを忘れてわがご先祖の追善供養にのみ利用する、単なる先祖供養の道具として使おうとしている、そのことをいっておられるのです。いまはその生き方は違っていても、永い世をかけてどんな縁で結ばれていたかも知れないのです。

 「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」わが父、わが母だけではない、だから念仏を私ごとに使ってはならない。だから親鸞聖人も、自分の親も視野に入れて念仏もうしながら、「いそぎ仏になりて」「有縁を度すべき」道を求めて、念仏していかれたのです。

 経典の中に「供養」の意味として「よく聴くことを供という」とあったのを思い出しています。また、聞法供養という言葉も聞いたことがあります。世間でも聞き上手ということがありますが、経典の読誦に耳を傾けながら、「いのちの根」から、静かに語りかけている声なき声に、耳を傾けて下さい。お経はお釈迦さまの説教です。「お経はなんのためにあげてもらうのですか」という問いは、問いそのものが問違っています。「あげる」のではなく「どういただくのですか」にならねばなりません。この私がお経から、なにを聞かしてもらうのですか、という問いに心を深められることをお願いします。

(松井慧光・「南御堂」もしもし相談室より)

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Last modified : 2014/12/09 6:17 by 第12組・澤田見(ホームページ部)