私は最近までお寺にお参りしたときには、家内安全や無病息災を願ってお念仏を称えていました。ところがお寺の住職さんが「仏さまに祈願をするものではありません」とお話されたのです。それ以後、祈願は近くの神社でするようにし、お寺ではしない、と自分で決めました。それを住職さんに話すと「祈願をすることにかわりはない」と言われるのです。私はお寺と神社を区別したつもりなのですが、私のどこが問題なのでしょうか。また願い事をすることのどこが悪いのでしょうか
(守口市・主婦48歳)
この問いで、一番大切なことは、お寺と神社の違いが、はっきりしていないというところにあります。
端的に言いますと、お寺には「お経」がある、そして御本尊として、仏さまが安置してあるということです。真宗では阿弥陀如来ですが、そのお心は南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏のおこころが説かれているのがお経なのです。だからお経は、釈尊のお説教なのです。私たちはこの南無阿弥陀仏のおこころを聞いて、わが身を明らかにし、迷うことのない道を歩ませていただかねばならないのです。(このことについては、もっと詳しく言わねばなりませんが、主題から外れるので省いておきます)
ところが、神社には祝詞(のりと)はあっても、お経はありません。祝詞はお祭などの儀式の時に、祭神をたたえて唱える言葉です。その祭神は国のために尽くした功績のあった人をはじめとして、蛇や石や大木や狐まで、神として祀っているのです。祀ってあるのは、国家的にも社会的にも、確かに功績のある人であっても、所詮は迷いの人間であったのです。
迷いの人間が、迷うてきた人に、どれほど願い事をしても、かなう訳はありません。まして蛇や石や狐に何を願うというのですか。
その願いごとの中身は、正直にいいますと、わか身、わが家族の無事息災であることを願っているのです。
何もその事を、善いとか悪いとか言っているのではありません。ただどれほど祈願しても、人間の思っているようになるとは限らないのです。その場合、これだけお参りしているのに、という怨みの心が残るし、ひどくなると、ここの神さん効き目ないと、また他の所に祈願するようになるのです。
釈尊は因縁という事をお説きになって、物事は「なる時はなるし、ならぬ時はならぬ。つまり世の中はなるようにしかならない」と説かれました。この道理をよく承知して、すべては成り行きに、おまかせすることです。
先ほど「なるようにしかならぬ」といいましたが、そこから「どうなってもよい」という生き方が生まれてくるのです。
この「どうなってもよい」というのは、何かやけを起こしたようにも受けとれますが、そうではなくて、どうなっても「よい」のです。
そうなれば、思い通りになればなるでよかったし、つまり「おかげさま」であったと喜べるし、思い通りにならねばならぬで、「一つよい勉強させてもらったな、今まで気付かなかったことに、気付かせていただけるようになったな、ありがたい御縁であった」と、心が開かれてくるのです。
竹部勝之進さんの詩に
フッテヨシ ハレテヨシ
ナクテヨシ アッテヨシ
シンデヨシ イキテヨシ
とある通りです。
(松井慧光・「南御堂」もしもし相談室より)
Last modified : 2014/12/09 6:12 by 第12組・澤田見(ホームページ部)






