しゃらりん37/教区テーマに感じたこと

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藤園 惠(72)

ある日の仏教テレホン相談でのことです。「恥ずかしいですが」と弱々しい声で話し始められました。四十代の男の方で、子どもの頃に受けた嫌がらせ、中学校での仲間はずれ、友人が出来ないこと、体調が悪く今は無職であることなど、四十分近く「そうですか」と聞くばかりでした。

終わってもらおうかと思ったとき、「何宗の方ですか」と聞かれました。「真宗大谷派ですよ」と答えると「僕は子どもの頃にお婆さんに連れられて、よくお寺へ行きました。今でも少し覚えています」と言って「きみょーむりょー」と始められました。私も暫く声を合わせました。続いて『恩徳讃』も歌われました。

「有り難うございました。また、電話していいですか」という声は少し弾んでいたように聞こえました。

桝谷胡太(8)

おばあちゃんの家にはミシンがたくさんあって、いつもミシンのカタカタという音が聞こえます。おばあちゃんは着なくなったふくをカバンにしたり、きものをスカートにしたりと、ちがうものにリメイクをするしごとをしています。古いものをあたらしいものにへんしんさせるおばあちゃんはすごいし、かっこいいです。

ぼくのお気に入りのズボンがやぶれた時もすぐになおしてくれました。大切にしていたふくが、またきれるようになってぼくはとてもうれしかったです。大むかしの人がまいにち大切につかっていた、青やこん色のふとんのぬのがおばあちゃんはとくにすきです。むかしのぬのはじょうぶだし、やわらかくなっていてよいそうです。今度はようふくにして、まただれかに大切に使ってほしいとおばあちゃんは思っています。

小松美月(15)

いま私は音楽高校に通っています。音高受験が具体的になってからは、毎日毎日「練習しなさい」と親に言われました。私には「練習してほしい」という願いがかけられています。

この願いはとてもしんどいです。演奏が評価の対象なので練習が必要な事はわかっています。けど練習は嫌いです。練習しても良い結果が出るわけでもありません。辛くて泣くこともあります。こんな時に思い出すのは中学生の時まで師事していた先生の言葉です。「人と比べるのではなく、自分が本当に満足できる音を奏でてほしい」。

周りの評価や、上手な子たちと比べて練習が嫌になっても、「自分が本当に満足できる音を奏でてほしい」という先生からの願いがあります。この言葉があるから音楽に向き合っていけるのだと思います。

安間朋子(40)

我が子へ。

一昨年の秋、長男が産まれてもうすぐ2才になります。多少の怪我はありますが、すくすくと成長している姿をみて、よくここまで無事に成長してくれたと安堵しつつ、この先も健やかに成長してくれますようにと願います。

もちろん、この子の母親として願望もたくさんありますが、この先、親の思い通りにならないことの方が多いだろうと想像します。

本人にとっても、どうしてもうまくいかないときがくるはずです。

そういった時には、誰もみんなそれぞれに、誰かから願いがかけられているのだと想像できるようなひとになって欲しいと思います。

もし、それを忘れてしまうようなときがあっても、誰もがみんなそれぞれに、誰かから願われて生きているということを思い出して生きていって欲しいと願います。

稲垣皓大(21)

みんなに願いがかけられている。私はこの言葉を聞いてみんなが私に願いをかけているという解釈とともに、いくつか疑問に感じたことがある。

まず一つ目は、みんなと言うのは誰のことなのか、知り合いみんななのかそれとも全世界の人々も含めてのみんななのか、みんなの定義が人それぞれ違うと思う。私にとってのみんなは、友達、家族、恋人など私の人生に関わってくる人のことを指しているが、その私に関わっているみんなに関わっている人達も「みんな」のうちに入ると思うので「みんな」というのはこの地球の人間たちのことを言うと思う。

そして願いがかけられているその「願い」とはなんなのか、私たち人間は、生きることに必死で、生きるためにご飯も食べるし、休息もする。生きることが願いだとすれば、私が、みんなにとっての生きるために必要な存在ということになる。

私がこの「みんなに願いがかけられている」という言葉を見て感じたことは、人間一人では生きていけないということである。今私が生きていけているのは、みんなのおかげであり、私のおかげでもある。もしこの惑星に私一人だけしか存在しないとするなら、一週間も耐えられずに死ぬことであろう、つまり人は支え支えられ成り立つ生命体なのだと思う。

藤林容子(63)

孫の誕生には、自分から娘を経て命のバトンが確かに繋がった、という感慨深いものがあった。本能のままに泣くばかりの赤ん坊だったのが、そのうち自我が芽生え、人間らしさをどんどん膨らませて成長し、社 会を歩き始めている。四歳になった彼が、ビデオ通話の画面の向こうで、幼稚園で覚えたばかりの歌を歌う。

いろんなぐうぜんがかさなって
ここにこうしてあなたと
いっしょにいられることが
ただとてもうれしい

そりゃいろんなヤツがいるけど
なんだかんだ言っても
気にいってる

ラララ
ね おじいちゃんになっても
ね おばあちゃんになっても
ずっと ずっと
いっしょにあったかく
つきあっていたいね ね ね
( 『ね』 高橋はゆみ)

そう、これからさまざまな人との縁を生きていく中で、自分の存在の奇跡と尊さとともに、そのままで共に歩んでくれる人と世界があることを確かめ続けてほしい、また共に歩もうとする人であってほしいと願いながら、無邪気に歌う笑顔を見つめる。

花田光莉(8)

わたしにかけられているねがいは、びょうきや、けががなく、元気でしあわせに生活することだと思います。わたしは、ともだちといもうとみんながしあわせにくらせたらうれしいです。それと、おとうさんとおかあさん、ばあばとおそらのじいじもけんこうでいてくれたらとてもうれしいです。せんそうがなくて、せかいのひとがみんななかよくくらしていたらとてもうれしいです。わたしは、人にやさしくすることで、おもいやりのあるみんながすごしやすいまちをつくりたいです。

山雄竜麿(57)

「願い」と聞くと、やはり「本願」という言葉を思います。それは、阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩であられた時、全ての人々を救うために五劫という想像を超えた時間を費やし誓われた四十八の願いです。端的には「誰をも救う、我が名を呼べ」すなわち「ただ念仏」という言葉に集約されるのでしょう。まさしくテーマ冒頭の南無阿弥陀仏と呼応します。

そして、この「願い」は「みんな」にかけられています、そう、私にも。

でも念仏してもお腹はすくし、私の思いが特別に叶うこともなさそうです。しかし、だからこそ、私の前を人として生まれ、人生をかけて念仏に生きられた宗祖親鸞聖人を訪ねずにはいられないのでしょう。なるほど私の大切なテーマです。

『しゃらりん』37号(2022/6/30発行)より