コラム法話 #生老病死 「私」との出あい【しゃらりん36号】

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私はつくづく「私自身」に出あいたがっているなぁと思います。そして私以外の方もきっとそうだろうなぁと思うのです。
「私自身」に出あうって、私はいつも私に出あっているし、私のことは私が一番分かっているとおっしゃる方もおられるでしょう。しかし「私自身」に出あうって、中々容易なことではないと、私は思うのです。

先日健康増進のため、万歩計や心拍数等を測る機能の付いた時計が欲しくなったのですが、あいにく新型コロナウイルス感染拡大防止のための自粛で、お店が休業していました。
インターネット通販で商品をみてみると、定価よりかなり安く買えることが分かりましたが、それで購入することにはためらいがありました。
結局お店の再開を待って、お目当ての時計を手に入れたのですが、その時つくづく感じたことは、この時計を決して価格だけでは買わない「私」なんだなぁということでした。実際に商品を手に取ってみて、店員さんとやり取りをして、そこではじめて私が納得し、購入となりました。
こういった経験は内容の違いはあれ、多くの方々が経験しておられることですし、時にそれを「こだわり」とも言ったりするのだろうと思います。

陶芸家・河井寛次郎さんの

物買って来る
自分買って来る

ということばがあります。ここで語られている「買う」は、決して金品のやり取りを言っているのではなく、「物買う」という縁を通じて、「買う」となった「自分買って来る」、つまりそこに自分自身との出あいを表現しているように、私には思えるのです。
そしてここで、私の日常の一コマをことばにさせていただいて、私は「私」に出あわせていただいて、とても嬉しいのです。この誌面を読んでくださる方がいてこそだなと感謝しています。

「南無阿弥陀仏」というお念仏は、阿弥陀様の向こう側からの呼び声を聞くことですし、それは同時に私自身との出あいの場であると思います。
ことばにならなければ、私は永遠に阿弥陀様に出あうことも、自分自身に出あうこともなかったでしょう。ことばになってはじめて、人間は事物を掴むことができ、感情に出あうことができるのです。

新型コロナウイルスの影響で、人と人とが集まる(会う)ことがとてもしにくい状況になっていますが、私が「私」に出あうためには、「私」をそのまま聞いて下さるもう一人の人が必要です。
みんなで知恵を出し合いながら、私が「私」になる会座を見つけていければと、切に願います。

(井関 靖/第10組慶德寺・組同朋の会教導)