5組青年会オンライン巡回 —自分の居場所が崩れるところ—

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青年教化推進実行委員会では、コロナの影響で対面での集まりが難しい中、青年教化用動画を作成しオンラインにて各組青年会の巡回事業を試みています。その試みの第二弾として (第一弾は7組青年会)、去る令和4年5月16日、第5組青年会さんにお邪魔しました。実際にはこの時期、対面での対話が可能でしたので、オンラインの人数は少なかったのですが…

5組青年会長の楠正知さんのお寺 (生野区定願寺様) を会処としてお借りしまして、プロジェクターに教化用動画を投影し、直接会場に集まったメンバーとZOOM を利用したオンライン参加者とを交えて、当委員会と5組青年会さんとの交流を行いました。当日は青年会メンバー9名、当委員5名、事務局1名の参加があり、動画を視聴し、簡単な自己紹介のあと、座談にて活発な意見交換が行われました。

動画は7組長教寺住職の稲垣洋信師による「居場所」をテーマとした法話で、昨今のコロナ禍によって人間関係が希薄化することで不安が深まる中、私たちが本当に安心できる場所はどこかということを改めて考えるきっかけとなる内容となっています。参加者の皆さんにとっての「居場所」を考える中、「自分が自分でよい場所」や「自分を受け止めてくれる場所」、「自分の価値を認めてくれる場所」が、やはりそれぞれの「居場所」となっていると話が進みました。結局、自分の都合がよくないと、その場所は居心地が悪いと感じてしまうわけです。

すると、結局「居場所とはどこか」という問いそのものの中に、抜け難くエゴが潜んでいるのです。つまり、こうです。誰だって、居心地の悪い場所に身を置くなんてのは嫌ですので、自分がそこにいて心地がよい場所を求めます。しかし、すべての人にとって都合の良い場所なんてものは実現しようがありません。エゴとエゴがぶつかり合い、その場の誰かは必ず居心地の悪さを感じるはずです。人間のエゴから出発した理想の居場所というのは、そもそもが実現しようがないのです。

ある方の意見で、なんとか自分の価値を認めてもらいたいが常にそれが実現しないかもしれないという不安を抱えていることを表現して、「まるでガラスの上で住んでいるみたいだ」と表現されました。また、私たちは「自分の価値が気になって仕方がないという病にかかっている」とも表現されました。こうした不安や人間としての根源的な病を抱えながら、私たちは日々居場所を求めてさまよっているわけです。なんと不安定なことでしょう。

しかし、もし仮に、自分の価値がまったく認められないという状況に陥ったらどうなるでしょう?割れることを恐れていたガラスが割れてしまったらどうなるでしょう?そこに、もはや私は「居」ないのでしょうか?なるほど、そこは私にとって居心地の良い場所ではないでしょう。しかし、きっとそのような場合でも、そこに私は「居」るはずです。私が作り上げたガラスが壊れてもなお、私はそこに存在するはずです。私が居るところが、場所になるはずです。その、壊れたところではじめて出会う「出遇い」もあるはずです。「居場所はどこか」という問いに対して、「こういうところだ」という方向にはどうも一致した答えはないようです。むしろ、自分が居場所と思い込んでいるところ—自分が絶対的に価値を置いているもの—が常に破られるところにこそ、新たな自己の場が見出されていくのではないか、そのようなことに思い至った座談会でした。