南無阿弥陀仏で本当に救われる?②/澤田秀丸

 ―救われるとはどういうことか

大阪教区第21組第5回「推進員の集い」講話録より
2018年12月5日 難波別院堺支院にて
お話:澤田秀丸先生(第12組清澤寺)

→冊子を銀杏通信に公開するにあたって(第21組組長・山雄竜麿)

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「処」でないと意味がない

 「三帰依文」を唱和します。 ―三帰依文唱和―

皆様もテレビをご覧になるでしょうが、時代劇でよく峠の茶屋という風景が出てきますね。旅をしている人が床几(しょうぎ)に座ってお団子を食べたりお茶を飲んだりしている。昔のドライブインっていうのでしょうかね。その脇には竹の棒がシュッと立っていて、先には「休み處(どころ)」って書いた旗がひらひらしています。やはり時代劇ですから「處」は旧漢字が使われていますが、今の当用漢字では「処」という字になります。ですから今の字で書けば「休み処」となります。

私はそれを見ましてね、旧字はともかく「あれっ、何で『所』にしないのかな」と思いました。だけどこれ、やっぱり「処」でないと意味がないのです。「所」ではダメなのです。こっちの「所」はありどころを表します。一丁目の一番地っていう場所です。だから住所って言います。お寺はここにありますということを表すのが「所」であって、そのありどころを指すのです。

対して、こっちの「処」は違う意味があります。これ左側は、冬頭(ふゆがしら)と言って人間が歩いている姿なのです。歩いている人はやがて疲れる。歩き疲れたらどうするかというと、木を切った後の切り株に、腰を下ろして一服するという字なのです。だから落ち着く処っていう意味です。

さて、私たちは何丁目の何番地かに住んでいるのですが、住んでいる所が落ち着く処になっているでしょうか。

テレビを見ておりましたら、どういういきさつか知りませんが子供たちだけが収容されている施設がありました。施設へ入らないといけない理由が何かあるのでしょう。もしかしたら家庭に何か理由があるのかもしれません。

アナウンサーが小さな子どもに「ここでの生活はどうですか?」って聞いたのです。そしたらその小さな子どもが、何とも言えない嬉しそうな顔をして「お友達がいて、先生は優しいからここはいいところ」と言っているのです。本当のお家でないから落ち着かないはずなのです。だけど今自分の居るところが全く私の落ち着く処になっています。

私たちの人生もそうです。人間に生まれてきて人間に生まれてきた尊さを「人身(にんじん)受け難(がた)し」と先ほど「三帰依文」で唱和しました。じゃあ人間に生まれてきて本当に良かったのか。喜んでいるとしても、いったい何を喜んでいるのか。私には、きちっと帰る場所があるのか。ただ、ふらふらうろうろして一生を終わろうとしているのじゃないだろうか。ここへ帰れば必ず私の気持ちが落ち着く、そういう「よりどころ」があるのだろうか。こういうことを私に問うている「ところ」がこの「処」なのです。

憂い悲しみが潜んでいる

人間に生まれてきた私たちは、素晴らしい知恵をだして素晴らしいモノを作ります。教育も経済も文化もみんなこれは人間の喜びを求めて努力しているのです。

しかし考えたら皆さん、人間が作り出した喜びというのには必ず憂(うれ)い悲(かな)しみが潜んでいるのでしょう。福島で原子力発電所ができました。そのときに発電所のある町の入り口に大きな看板が掛けられて「原子力明るい未来のエネルギー」と書かれました。明るい未来のエネルギーである原子力発電所が私たちの町にできた、という喜びの看板です。

だけど今は悲惨たるものです、みんな地震で疎開をして未だに帰れないのです。これは地震の問題じゃ無くて人間の作りだした原子力発電という科学の問題なのです。人間の作り出したものには必ず憂い悲しみが潜んでいるのです。

「楽」に三種あり

そういう私たちが人間に生まれてきて得ていく喜び、この喜びを仏教では「楽(らく)」といいます。そんな人間の喜びと、仏法で説く喜び、この違いを曇鸞(どんらん)様というお坊さんが教えてくださっています。
曇鸞様というお坊さんは、中国でお念仏を喜ばれた念仏者です。親鸞聖人は、浄土真宗をご自身に伝えてくださった七人の高僧の一人として数えられています。「正信偈( しょうしんげ)」にも「本師(ほんじ)曇鸞(どんらん)」とこう謳われてあります。

曇鸞様は中国の方なのですが、聖徳太子が生まれられるちょっと前に亡くなっていらっしゃいます。聖徳太子は西暦の五百七十四年に誕生されていますが、それより三十年ほど前に亡くなられたのです。

曇鸞様がお書きになりました代表的な本を『浄土論註(じょうどろんちゅう)』といいます。この『浄土論註』中で「楽に三種あり」とおっしゃっています。これを親鸞聖人は非常に尊いお言葉だというので、親鸞様がお書きになられた『教(きょう)行(ぎょう)信(しん)証(しょう)』というご本の「証巻(しょうのまき)」という中に、曇鸞様のお言葉そのままに引用されています。

一つには外楽

まず「楽に三種あり。一つには外楽(げらく)、謂わく五識(ごしき)所生(しょしょう)の楽なり」(『真宗聖典』P295)とあります。ちょっと難しいですが、五識というのは、五つの人間の持っている知り分ける力、物事を判断する力です。「外楽」とは、この五識によって生まれてくるところの楽だとおっしゃるのです。

五識とは、外にある喜びを私が「わー」とよろこぶ喜びなのです。これには道具がいるのです。例えば、桜の花が綺麗に咲いていて「わー綺麗!」と喜ぶのには、眼を通さないとダメでしょう。「眼」それが五つの意識の一つです。

五識とおっしゃるのですから五つあるのです。眼を通して喜ぶ他に何がありますか。

(会場から)「匂い」。うん。匂いにはいい匂いと悪い臭いがありますが、何を通すのですか。桜の花は眼を通して綺麗だなーと思う。匂いは何を通すのですか。
(会場から)「鼻を通す」。 そう「鼻」、他には。本当はお釈迦様がおっしゃる順番で言ってもらうと一番ありがたいのですがね。
(会場から)「耳」「聞く」。いい音楽だなあと聞く。落語を聞いて悦ぶ。聞く。道具は「耳」ですね。あと二つあります。
(会場から)「味わう」「口」。 口と言う人が多いのですが、口はあんまり賢くないのです。口は入れたものがこぼれないように作ってあるだけ。そうじゃなくて「これもうちょっとお酢が効いていたらいいのになあ、これは甘い美味しいおぜんざいだな」て感じるのは何ですか。
(会場から)「舌」。 そう「舌」。それから?
(会場から)「手」。 うーん。では足は?ということになる。そうじゃなくて例えば「今日は暖かいね。いい風だね。良い日差しだね」というのは舌だして感じますか? あるいは目をむいたらいいですか? 体ですね「身」です。手も足も含めて「身」です。

この五つを仏教では、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)と読むのです。これが非常に優れていますから、ここへ根という字を書いて五根(ごこん)ともいうのです。これがだいたい世間にあるものを私が喜ぶ道なのです。「外楽」というのはその喜びです。この五識の私たちの道具を通して私たちは喜んでいきます。温泉につかって喜ぶのもみんなこれなのです。

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Last modified : 2020/04/28 17:49 by 第12組・澤田見(組通信員)