6 お迎えくすべ

 これは非常にいい言葉だと思ってよくご紹介するのですけれども、昨年、北海道で「お迎えくすべ」という言葉を聞きました。「くすべ」というのは老人性のシミでございます。私も手の甲にいっぱい出ておりますが、そのシミを「お迎えくすべ」と言い、ああ、私にもだんだんお迎えが近づいてきた。それが、この「くすべ」となって知らせてくださっていると、そういう意味だそうです。

 「お迎えくすべ」というのは、ある意味「いい言葉だなあ」と思いました。現代の私たちはこういうシミを見ますと、すぐにレーザー光線か何かで取ることばっかり頭が回ります。しかし、昔の方はそういういのちの事実をしっかりと受け止めて、そして、だからこそ、いのちあるかぎりしっかりと生きる。事実を受け止めるがゆえに、その事実を尽くして最後まで生きる。そういうことをこの「お迎えくすべ」という言葉にも感じました。

 これは一昨日の朝日新聞夕刊に映画監督の恩地日出男さんのことが載っていました。「蕨野行(わらびのこう)」という映画をお作りになったということです。これはいわゆる東北地方の棄老伝説ですね。食べ物が少なくなってくると、お年寄りたちは自分で野原に出て行って、そして力尽きれば、そこで死んでいくという、いわゆる「優婆棄て(うばすて)」の伝説と同じでございますね。

 東北地方のそういう棄老、老人を捨てるという、棄老伝説を題材に映画を作られたのだそうですが、その映画に主演されている市原悦子さんが「死を受け入れるということは、死ぬまできちんと生きるってことなのよね」と。こういうことをおっしゃっていることが夕刊に載っておりました。「死を受け入れるということは、『もうダメだ』といって投げ出すことではないのだ。死ぬまできちんと生きるということなんだ。そういうことをこの映画に出演させてもらって教えられた」と。

 何か「お迎えくすべ」という言葉をお互いに語り交わしながら生きていかれた、そういう人々の生活人生に対する姿勢でございますね。どこまでも事実を事実として受け止めて、そしてその事実を尽くして生ききるという。決して頭だけでいろいろ解釈して考えて心を閉じてしまうということではない。全身でいのちの事実を受け止めて、全身を尽くして生きていく。何かそういうことが改めて市原さんの言葉、そしてその映画の紹介から教えられました。

 そういうことから振り返りますと、私どもは自分ということを思いのところで主張したり、絶望したりしていますけれども、自分の生きているいのちの事実というものを本当に受け止めるということがないままにきているのではないか。人生の始めと終わりが、決して納得のいく事柄で決められてくることではないと同時に、その中間もですね、決して自分の納得いく日々を送れるわけではないのです。

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Last modified : 2014/01/27 23:01 by 第12組・澤田見